サイコパス 2 第11話

 シヴュラシステムにドミネーターを向けたら真っ黒だった件について。
 やっぱこれも自民盗政権に対するもんだよな。口ではいくらキレイ事を言ってもやってることばかりではなく、動機もおかしいってヤツ。さすがに朱に指摘されてシステムを改変するのはファンタジーではあるが。シビュラがそれまでのあり方を変えたってのも、鹿矛囲の存在がシステムの外側にあるということを考えると、鹿矛囲はいわゆる「ガイアツ」のメタファーなんだろうなという気はする。
 自分的にはいわゆる集合知とやらも信用がならないので、この結末はどうにも。現代日本というものが、合衆国の属国もしくは植民地であり、統治者がその代理人でしかないこと、統治者と国民の間に挟まっている官僚や企業集団が大局でその構造にご奉仕する存在でしかないこと、民衆がどちらかといえばそのことに無自覚で、消費者目線でしかモノを考えられない層が多いことなどから、集合知に大した期待を持てないという現状があってなんだかなぁといったところ。三人寄れば文殊の知恵とはいうが、あれは江戸以前の民衆が「イエ」としては一つの経済共同体であったからであり、現代人はそのような要素がほとんどないから正常な判断が下しにくいというのがあって、要するにバカは何人集まってもそこから得られる結論はクソ以外の何者でもないというのがある。たまによい意見が現れても、そういうのは多数の「消費者目線」で潰されるので、ホント社会としてはダメになってるような気がしないでもない。
 そういうのが自分の頭の中であるので、この作品は昭和末期の民衆のあり方が前提になってるような気がしてならない。社会が全体としてそれなりに機能しており、統治者がやり方はともかくまだ統治に目を向けており、国富を私物化する段階にはないことなどを考えるとね。今だって大企業の利益中心ではあるんだけど、昭和の時代には大企業の製品が庶民の生活スタイルを提案するというスタイルであり、それが平成になって徐々に消費者の求めるものを作るべきという風潮に代わってきたから、シビュラの変化もそれに対応する。で、その消費者の意見をクレームやご意見箱で取り入れたところで、日本の家電製品が売れるようになったわけではない。むしろアップルのように企業のつくりだす製品が庶民の生活スタイルを変えるという構造になっているわけだ。まぁ日本が戦後傾斜生産方式護送船団方式などの計画経済で物質的に豊かになり、そういう中央集権型の統治がうまくいっていたのがバブル崩壊までだったのが、じゃぁバブル崩壊後、それを中央集権型の統治がどうすることもできなくて、やれ民間活力だのいったところでうまくいかなかったわけだ。この作品ではその中央集権型がこわれるところまで、つまり日本ではヾブル崩壊ぐらいのタイミングを描いているわけであり、シビュラが変革をしつゝも決して放棄されておらず、シビュラが君臨したまゝ朱が集合知に期待して終わるという流れになっており、仮にこの作品に続編が作られるのだとしたら日本の失われた30年が描かれることになるハズ(もしくは今この瞬間までを描くのではなく、細切れにするのなら、まず日本の失われた10年が描かれる)。となれば、結論は見えているし、そういうのを見たいか?といわれたら微妙なところ。自分はこの作品が日本の最近の10年ぐらいを描いているものとばかり思っていた(いや、実際問題そうなのかもしれないが)ので、なんだかなぁといった感じかな。しかしまぁ苦闘した主人公が未来を信じて物語が〆られるというのは形式でしかない(しかもその楽観主義は現実の推移からすると必ず実らないものであるというのが暗示されているというところまでセット)ので、これからどうすべきかという提案というよりは、切り取って終わりというところなのかな。で、そういうのが面白くないわけでもやり方として逃げ腰だというつもりもなくって、その切り取りをすること自体は価値があることなんだろうという気はする。来し方行く末とはいうが、来し方を正確に把握することは重要であって、やれ歴史修正主義などによって間違った前提ありきで話を進めても不毛な大地しか得られないという。
 ちょっと振り返ってみて、かなり情緒的に作られていてヒくところもないわけではないんだが、こういうセンセーショナルな方法を物語の手法として使いつゝ、背後には社会システムとは…という対話をしながらいろいろ思考実験を各視聴者に促すってのが本意なんだろうなというのが思い浮かんだ。腐った方々の楽しみをけなすわけではないが、キャラの生き方とか物語としての完成度の高さに目を取られてはダメなんじゃなかろうか。前述したとおり、この作品は決して提案をしているわけではない(よく言われる対案なき反対は不毛と、これまた多数派がよく主張するのだが、そういうのは反対派を黙らせる方便であるというのがよくわかる)のだが、システムに潰される実例を見せつけながら、視聴者に考えを促すという目的があったのだとすると、それはそれなりに届く層がいたのではないのだろうか。いやもちろんピカレスクロマンだとかキャラ萌えなど、そういうので考えが止まっている層は圧倒的に多いとは思うんだけども。少なくとも第1期のように猟奇で終わってるのではなく、社会システムに目を向けさせるというガチ勝負を仕掛けているのは面白かったかな。おもろ+。