ストパン2 第11話

 もっさんがウォージャンキーな件について。
 今シリーズは上層部がまともだわな。ネウロイの目的が人類の絶滅であるとするならば、実は人類側はどんな犠牲も顧みずとにかく殲滅のためにすべてをやり尽くさなきゃらないワケだが、目的自体がわかんないからな。ただ、ネウロイは人類がまったく対応できない敵ではないようで、押しあいへしあいの攻防戦が通用する相手らしい。だから、上層部が501をすり潰さず、あくまで決戦は軍の手でやり遂げようとする姿勢は素晴らしい。そりゃ実質的な成果はウィッチがあげていて、軍としての面目を回復するって面もあろうが、それでも若者を騙して自爆攻撃を強要させたいつかどこかの軍よりは、退却する決断といい、後々のことを考える戦略眼といい、まともであるわな。
 むしろ501のほうが、戦いこそが自分の存在意義と思って、目的が転倒している人がいたり、悲壮感に酔って正常な判断ができていなさそうな人が多数いるわな。いつも部下の調子を心配しているミーナですら、上層部の気遣いの含まれる判断に反発するような台詞だったので、あれを本気で言ってたのなら、「ヲマエもか」と思ってしまう。まぁあの場では隊員全員の気持ちが突っ走っていたので、ヘタに機嫌を損ねるような事は言えなかったという可能性もあるんだよな。もっさんなんて戦えない自分を認めるぐらいなら死ぬ気がありありと見えるわけで、それをミーナがわかってないはずないんだけどな。
 まぁとにかく501が浮き足立っているので、傍で見ていて危なっかしいことこの上ない。まぁそうはいっても501結成の目的がネウロイの撃退及び殲滅なんだから、それが達成されないことのもどかしさはわかるんだよ。プロジェクト完遂のための組織が目的を達成できないワケだからな、何やってんだということにはなる。製作委員会方式のアニメが、途中打ち切りの目に遭って解散ってなもんだ。
 が、もっさんが跳びだして、もう自己犠牲で物語を〆る気マンマンだよな。で、これが合衆国あたりの感覚だと、「残念な結果に終わったけど、また一緒に仕事をすることがあったら、そのときはよろしくな」で別れると思うんだよ。でも、この流れだと目的完遂のために自腹を切ってまでいれあげているわけだろ、で、その自己犠牲でなんとかなっちゃうんじゃないか?ってバランスが絶妙だわな。そりゃ日本人は自己犠牲でプロジェクト完遂って大好きだもんな。でもさぁ、これって、今だからこそ美談にしちゃぁいけないと思うんだよ。
 ちょっと話は逸れ、長くなりそうで申し訳ないんだが、いやそもそも日本人って自己犠牲が元々好きな性分だったのか?と考えて、いやそうでもなかったんじゃねとも思うのだ。今、逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)を半分ほど読んでいて、昔の日本人と現代の日本人とがかけ離れているところもあり、いや結構似ているところもありでいろいろ考えさせられている。
 で、昔の日本人って平家物語は好きだろうけど、あれ自己犠牲じゃないだろ。あと何があったっけ?、太平記も違うだろ、成り上がりの太閤記も好きだしなぁ、それっぽいのが忠臣蔵なんだけど、アレだってバカ殿のせいで失業した浪人たちが敵討ちというパフォーマンスでリクルート活動してたってことのようだしで、江戸時代ぐらいまでの日本人がそんなに自己犠牲のストーリーを格別好きだったってわけでもないらしい。例えば楠正成の忠臣ぶりだって、あれ明治以降、天皇中心の集権国家にしたてあげ国民を都合のよいように操るために政府が演出したのだ。そりゃ自己犠牲が美しいのはそうなんだが、日本人がそれに流されるようになったのは昭和以降のことらしい。むしろそれまでの日本人ってのはそういう政府の意図を心では胡散臭いとかあざ笑ったりしていたんだろう。官憲とかを憚っておおっぴらにはしてなかっただけで、結構まともな感覚だったんだろう。
 で、話は元に戻るんだが、国だの企業だののために犠牲になれと特権階級が望み、目的完遂のために自己犠牲を美化した話を提供し、その働きかけに特に若者が騙されやすい。特攻だって、騙しやすいから特に若者目当てだったろ?。確かに今なんかはモンペだとかクレーマー体質で、しかもゆとりで能力のない若者が多いとはいえ、じゃぁそれを鍛えなおすためにみんなのために死ね!はないだろうと思うのだ。むしろ特権階級は「庶民なんて愚かなまゝでよい」なんて考えていて、実際そういうのが教育の中枢にいた。そしてこの日本の失われた20年、企業のために自己犠牲を強いられ、使い捨てられた庶民がわんさかいる。そして特権階級はのうのうと上から目線で庶民は自己責任でさらに苦しめと言っているワケだ。いかにも若者をターゲット層にしているような本作が、メッセージとして自己犠牲を美談として刷り込むのは危険なんじゃね?。しかも自分が今回意外に思ったぐらいの上層部の思い遣りぶりとか、前線の仲間意識の異様な昂揚ぶりとか、いかにも「上層部は間違ってないんだ、組織のために個人が仲間を守るという意識を持ってすり潰されるのは美しいんだ」ってのは二重・三重の意味で危ないと思ってしまうんだが。しかも仲間を守るとかいうのを盾に、戦うこともしくは自己犠牲が自己実現に巧妙にすり返られてるし。そういうのを全部分かった上で娯楽として楽しむんなら全然問題はないんだけど。なまじっか今まで理想の職場論が展開されてきただけにねぇ。