セキレイ Pure Engagement 第7話

 シングルナムバー懲罰部隊男のセキレイが他人のモノになっていたとは、外見でまるわかりなのに気付かなかったよ。
 うーん、インターミッションなのに結構考えさせられるネタが多くて面白かったよ。まず鶺鴒計画については、どうも御中はあらたな神話を作りたいらしい。で、よくよく考えてみると、その欲望ってのは人間が考え付く限りで、最上級ともいっていゝものなんじゃないかと。世界征服でもいいんだが、結構反感を買うんだよね。で、宗教の教祖ってのも考えられるんだけど、これも共感を感じない人には支持してもらえない。で、最高の地位ってのが「神になること」なんだろうと思う。でも御中の面白いところは、どうも神になることは人である身には無理だとわかってるっぽいこと。で、神になれなくても、神話の最上位の存在として後世に語り継がれることを選んだんじゃないかと思われるのだ。いやいや、松がすべてを正直に語ってはいないらしいので、どこまで本気にしていいのかわかんないんだけどな。
 前シリーズのこの設定をすっかり忘れてしまっていたわけなんだが、セキレイたちは御中や浅間が「拾った」モノなのな。物語の開始で葦牙たちにセキレイが与えられるわけなんだが、その葦牙にとってはセキレイは御中からの贈り物であって、その能力を使っていろんな願望が叶えられるのも御中のおかげという体裁を取っている。だから、御中のいうことに従いたくなければ与えられたものを手離すしかないってのが前提にあるんだろうとずっと思っていたのだが、こういう設定なら、そもそもセキレイ自体が別に御中の拾いモノなんだから、セキレイの所有権なんてすごくあやふやなもんなんだよなと思った。
 で、これまた松がどこまで本当のことを語っているのかどうかわかんないんだけど、想像するところだとセキレイの調整ってのはどうもセキレイ自体が持つ能力をどこまで制限し、どこまで伸ばすかってことらしい。そして御中はセキレイの機能を停止させることができるらしい。
 そこまで聞いてしまうと、セキレイ計画ってのは何を目的としているかは置いとくと、「葦牙にとってはいつでも降りることの出来るゲーム」であることがわかる。別に初めから葦牙にならなくてもいいわけだし、今までの描写だとセキレイ争奪戦などに負けても命を取られることもないし、いやなら降りれば良いだけの話だ。セキレイ自体、もしくはセキレイの能力を背景とした権力に執着すればするほど、セキレイの生殺与奪権を握る御中に従わなくてはならないという構造になっているワケだな。でもまぁ前シリーズ最後で、脱出に成功した葦牙とセキレイがいたから、御中の影響力の届かない所でひっそりと暮らすって程度には逃げ道が用意されているのかな?。これまたわかんないんだけど。
 まぁセキレイたちにとっては、御中は自分の本当の親でもないのに、機能停止権をもっているためにセキレイを振り回している厄介な存在ってことなのか。セキレイにとって機能停止が人間にとっての死と同じことを意味するのか?、それとも再起動するのなら、そのへんどう考えているのかゞ気になるところ。そしてセキレイにとって各自気にいった葦牙とペアになり、その番いのまゝ暮らし続けていくことがセキレイたちにとっての幸せなんだったら、セキレイ計画なんていう、葦牙どうしの戦いで、セキレイがたったの一羽まで減らされるって状況ってのは、やらされる必然性の無い全く迷惑千万な所業なんだろうなと思ってみる。御中はまるで、親から買い与えられた玩具どうしを戦わせて、一つ以外は全部壊してしまう困ったチャンだ。しかもそれを人にやらせるという。
 そうなると、焔の怒りもわかろうもんである。男か女か自分で決められないってことは、自分の幸せってのを自分で決められないってことだ。まぁ男としての幸せだとか女としての幸せってのも、そいつが属している社会のあり方にも大きく由来するけどな。自分が理想とする現実の相手が男ならその男に合わせて、女なら女に合わせて自分の性別を決めることができる、というよりこの場合は相手が決めちゃうわけなんだが、というのは性別ですら自由に決められるってことであり、それはそれでいゝことなのかもという考えがずっとどこかに潜んでいたのだが、よくよく考えてみたら性別は所与の状態であるからこそ、男は男の、女は女としての価値観を獲得し、それをベースに人間というのは考えたり行動するんだろうなということに気付いた。
 で、焔の性決定ってのはどういう原理によるんだろ?。葦牙に反応して体が変化するって言ってたが、要するに皆人に反応したんだろ?。で葦牙の望むまゝの姿になるっていってたけど、なんつーか、皆人が「篝さんが女に変身してボクと仲良くなって欲しいなぁ」なんて思っていたハズはないのであって、そもそも体が女に変化したのは焔が「皆人が自分の葦牙になるんだったら、自分は女でありたい」と思っていたからだろ。で、「ありのまゝでいゝ」と言われて喜ぶのは男ってよりは女だろと思うのだが。
 でだな、セキレイに葦牙が存在する意味って台詞は、これ、どう考えても女にとっての男の意味だよな。焔と看病する皆人を気遣って廊下で寝ていたセキレイ達の様子を見ると、これまた社会的だけでなく、ペルソナ的に言っても「男の役割とは、女の役割とは」なんてメッセージが込められていると感じる。フェミニズムなんてものではなくって、フェミニン臭がするというか、いや、もっと互いが寄り添う存在として無理なく「合う」ってことはどういうことかなんてことを表現しているのかなと。ずっとこの作品はオタクが自分を弱々しい皆人に投影してハーレムラブコメを楽しむってモノではなくって、女の子も楽しめるモノなんじゃないかと感じてきたが、むしろ女の子向けなのか?という気がしてきたよ。いや、原作者が女性だからといっても脚本は男性だし、どっちかというと男向けであることには変わりはないが、その問題はさておいて、女の子に「無理なく相手に寄り添うには」ってパターンを示しているような気がするのだ。松にすべてを聞く前にビビった皆人を支える結や月海のありようを見ると、すごく微笑ましいんだよな。