続 夏目友人帳 第13話「人と妖」

 第3期はなさそうな雰囲気だったな。
 夏目は名取に人か妖かを選べと言われていたが、正直カイは妖ではないよな。最終的に寂しがり屋の神様なんて立場が与えられていたケド、別にそういう意味付けは無くても通用する話だし。で、前期良く見られたような、妖は弱者のメタファーか?と言われると、それもちょっと違うような気はする。まぁ妖力が強いからより人間そっくりに化けられるってことだったが、妖怪の要素が極力少なく、人間の要素が強いって事だから、よくよく考えるとそれって人間と等価*1でね?ということになる。
 で、夏目に訪れるのが試練である。名取に「カイは人間ではない」と聞いて、夏目が彼を排除される・もしくは対立すべき存在と見なすのかということだ。もちろん、夏目がそれをするはずが無い。で、実は隠されている試練がもう一つあって、それはカイを保護されるべき対象として「見下す」かどうかである。で、それはすぐには明かされない。夏目がカイの頭を撫でる場面がある*2が、そこで厳しいニャンコ先生の疑惑の目が描かれている。
 で、彼が妖をどのような存在と思っているのかが明確に示されるのが洋館でカイに助けられる場面である。今度は夏目が助けられることでカイが上位者に立つ(で、絵的にもカイが夏目を見下すという位置関係になっている)わけなんだが、そこで夏目は媚びることもせず、かといって強がっているわけでもなく単純に好きと答えるのだ。いやあの場面で「嫌い?」と問われて「好き」と答える以外の選択肢があるわけでもないのだが、まぁそこは動画スタッフの表情つけに注目といったところだろう。とりあえず、後でカイには誤解されるものゝ、ニャンコ先生の合格はいただいたという結果になっている。くどいようだが、書き記しておくと、人間と妖はどちらが上だとか下だとかではなく、対等に向き合うべきと夏目が考えていることが示されている*3のだ。まぁそうなら、最後に会いに行ってやるってのはどうよ?ってのはあるが。
 まぁそんなこんなで、いつも夏目の人のよさに振り回されている感のあるニャンコ先生が、今度ばかりは夏目を促してカイを追いかけるという展開になっており、夏目とニャンコ先生の信頼の深さが示されて最終回となりました。普通に考えると次は無いと判断して良いよね?。
 ということで第2期を振り返ってみると、第1期もそうだったのではあるが、孤独の克服ってテーマが強かったような気はするな。人間関係を少しずつ構築することによってネットワークを作り、相互の助け合いの精神でそれを為すってところか。でも、それはちょっと現代性に欠けるような気はする。生計で重なる部分を持たないもの同士が、いわゆるヴォランティア精神で気を遣いあったとしてもそれに効果があるとも思われない。で、都市部でそれが上手く成功したとも聞かない。
 で、居場所なんかなと思わなくもないが、この物語では夏目は未成年であるから問題はないが、藤原夫妻が夏目に保護を与えているような一方的な関係はいびつであって、そういうのが正しいとも思われない。弱者が居場所を獲得できる可能性ってのは、実はこの作品では注意深く取り除かれている「人間の悪意や欲望」の排除だったりするわけなんだが、まぁ別にこの作品が強くそれを主張しているってわけでもなくて、ただひたすらに人間の善意を取り上げて、でもその善意だって誤解や曲解などを受けてとかく世は上手くいかないものだ、でも人間捨てたものではないって描き方だったと思う。そしてその態度に随分涙を流させて貰った。
 っつーわけで、それこそ政府のトップから我欲の塊であって、というかエスタブリッシュメントとやらがドイツもコイツも自分のことしか考えないこの日本で、こういうセンチメンタリズムが現実を変えるとはとても思えないわけなんだが、でも癒しは必要だよねということで、そしてその構築が実にうまかったということで、おもろ+。

*1:それこそと禁の最終エピソード“身体は機械だが中身は人間”ではないが

*2:まぁ共依存だの、夏目は自分自身が輝くべき存在として弱者を必要とする人間かどうか…みたいなのもいろいろ含まれると思うのだが

*3:カイが子供の姿をしているために、どうしても夏目が上位者に見えてしまうということが混乱の要因として残る