アタックNo.1 第52話 非情の試合再開

 富士登山デートがフラグだなんて。
 GyaOだと、番組開始ページのサムネイル画像で危機がわかるようになっていて、しかも概略紹介にはあらすじまで書いているので、こっちとしてはついに来たかという心構えが出来てしまう。しかし、当時は大人気漫画のアニメ化で、たいていの視聴者は原作にてあらすじは承知だったろうから、あんまり意外性はなかったのかもしれない。いやぁ、もう今回の初めっから追悼番組っぽい構成だったしな。
 試合に急ぐ描写はあったものゝ、あんまり焦って事故という風でもなかったような気がする。大量に仕入れていたわけで、トラックに商品を積んだまゝ、試合会場に駐車するつもりだったのか、それとも試合は最初っから見に行かないつもりだったのか判断に困る。
 しかし、さすがに中学を卒業したてでは商売にまだ慣れていないという設定なのかな。仕入れるために遠出していたわけなんだが、仕入れにかける時間と販売にかける時間のバランスをとらなければいけないわけで、あんまり遠出しても売れ残りが大量に出るだけのような気もする。しかも前回と今回とで仕入先が違っていたわけで、とにかく努は安い仕入先の開拓をどんどんしていたのかもしれない。また仕入れるからとの台詞のわりには、あんまり仕入先を固定化して取引先との良好な関係を築くというわけでもないと思われた。合理的に考えると、農家が一定量農協に卸す以外の余剰野菜を安く譲り受けていたと考えられるのだが、そこらへん説明も仄めかしの描写もあんまりないので判断しづらい。ただ、いくら努の頭が切れるといっても、あんまり同業他社との共存を図っていたわけでもないし、仕入先との良好な関係を確立していたとも思われないので、一生懸命やってはいても、いきあたりばったりの感は否めない。昔は今よりもっと商売上の関係が重視されていた時代だと思うので、きっと視聴者の親が自営業で背後でこの作品を視聴していたとして、努の商法は危なっかしいと思っていただろう。
 富士見学園高の本郷の方針は大雑把ではあるが、わかりやすかった。相手の防御方法を固定させ、多彩な攻撃でゆさぶるというのは指示として簡潔で適当である。ただ、あまりにこずえと努のストーリーラインを重視していたので、一視聴者としては攻撃方法が単純に思えてしまった。
 今回のキモは、サブタイにもある通り、こずえの試合続行への決心だと思うのだが、なんとも微妙に感じた。確かに人死にという重大な要素には逆らえないわけではあるのだが、人の生き死にと試合とを天秤にかけるのは、ある意味不謹慎のような気がしない。例えばこずえの親しい人が生死の境を彷徨っているという情報が相手に伝わるようなことがあった場合、日本人的感性からすると、相手チームは配慮せざるを得ない状況に追い込まれる。さすがにそういう事態は排除されていて、あくまで富士見学園高内部での処理の問題になっていたが、漏れたら大変になる。
 単純に考えても、視聴者の大部分は親しい人の生き死にを超越して試合に没頭するこずえに声援を送らねばならない状況になるわけで、これはわかりにくいが、これはスタッフによるこずえ側への同調圧力をかけているといわざるを得ない。こずえが苦難を乗り越えるという成長を描くことには効果があるが、ちょっと弊害があるという気がするなぁ。
 しかし、そもそもここまで深くこずえと努を接近させてきたわけで、これからこずえが世界の舞台へ飛び出して、国際的な交友関係を通じて成長させていく姿を描写していかなくてはならなくて、いくら努がよき理解者だからといっても、彼を生かしておいては、所詮こずえと努とのインナースペースで話が転がっていかざるを得ない。これでは話が広がらないわけで、物語上から努は退場させなければならないわけだ。もちろんストーリーテリングからいうと、それは全く正しいことなのだが、やっぱ時代なのかね?。客引きにやっぱ生死をネタにするというのは、昔は良かったと思うんだが、今となってはもう少しほかの方法はなかったかね?という気がしてしまう。もちろん生き死にだからこそ、こずえの葛藤も深みは帯びるわけなんだが。
 まぁどうでもいいことなんだが、ぐちぐちと。