それでも黒人にとっては、こずえのがんばりなどお嬢さん芸に過ぎないんだけどな。
熱い、熱いよ。正直自分などこの当時の黒人や日本のスラム街の貧しさなんて理解できないんだろうけど、まだこの作品の放映当時は、日本も一部の特権階級をのぞき、戦前から敗戦直後の日本の貧しさというものが記憶に生々しく残っている人々もたくさんいた時代。心情的に貧乏人の心のうちがわかるんだろうな。というより日本人の貧乏体験を黒人に託して表現したのかも。今でも施しを受けることを嫌う人もいるのだが、逆差別問題が起こったり、生活保護にたかる人が話題になる現在では、このメッセージが伝わるのだろうか?。生保にたかる人は昔からいたとは思うんだけど、それが病院や学校にモンペとして理不尽な要求をあからさまにするのは、さすがに現代病理なんだと思うが。
さて、やはりこずえと黒人の間には深い断絶がある。最初にも言っていたわけなんだが、最下層のものが成り上がるためにはミュージシャンとスポーツ選手しかないということが、どうしてもこずえには分からないわけだ。そもそもそういう状況に追い込まれて、まじめに働いて成果を出したとしても、搾取されて決して手許に十分な金が貯まるわけではない。むしろそのへんは保守団塊よりは氷河期世代のほうが理解できるのではないかと思ってしまうわけなんだが、こずえやみどりはそういや最初からお嬢さんという描写であった。生活のことを気にせずバレーがやれるという環境自身が既に当たり前になっていて、むしろ金があるだけに、バレーをすることから金を稼ぐってことがこずえにとってはかえって卑賤に感じられてしまうのだろう。
だからと言って、中途半端な経験やふれあいで、こずえに貧富の差を理解させるってのはウソになるわけで、そこらへんはうまく処理していたと思う。こずえ自身思い悩んでおり、ヘンに割り切りをさせないのも感心。かといってボールを素直にジョニーにプレゼントするわけにもいかず、彼らを傷つけずにどうやって渡すかという結論が面白かった。
自分もジョニーにボールが渡った直後には理解できなかったのだが、どうやら勝負を仕掛けて負けることにより、相手は勝った報酬としてボールを得るというもの*1らしい。正直レシーヴできなかったらこの贈与は成立しないのだが、そこはフィクション。木の葉落としという困難な試練に打ち勝つということで、決してこずえがわざと負けてやったという形はとっていない。スポーツを金儲けの手段(つまり勝ったら金が貰える)と主張しているだけに、このボールを受け取らないわけにはいかないわけだ。ジョニーにボールが渡った瞬間に、これがこずえの配慮だったんだと気付いてわだかまりなく受け取るというのにも泣ける。
なんだかんだ言っても大局でこずえが貧しさに同情してモノを恵んだという構造には変わりがない。今までの「何のためにバレーをするのか」というこずえの継続した問いかけに繋がってもいる。決して上から見下すのではなく、あくまで相互理解するために苦悩するという姿を見せているからこそ、真に相手のことが理解は出来なく*2とも、お互い寛容な社会は築きうるというメッセージにはなっていたと思う。
こずえもまだまだ中学生。決してこの件で彼女が大人に成長したわけではないのだが、成長過程の貴重な格闘であったというのはジュヴナイルとしては上質のものなんでないかと思う。