アタックNo.1 第78話 すばらしい勝利

 スタッフやる気ねぇだろ。
 こずえがベンチに引っ込んだときも、二年生武市・石川の2人、一年はみどり、ナカ、真木村、デコ、石松…バレーって何人でやるスポーツだっけ?。まぁ試合をはしょっちゃってたので、選手交代していたということなんだろうけど、こずえに関してはしっかり描いているわけだから、その他の選手の入れ替えもわかるようになっているべきだと思うんだがなぁ。
 いちおう、こずえは会場の観客のコールや桂の言葉で立ち直ったということなんだろうが、そうだとしてもなんでコンピュータバレーを劇的にひっくり返すことができたのかが圧倒的に弱い感じがした。っつーか、東南のやっていることって、別に今となっては当たり前になっていると思うんだが。というか東京オリンピックですら日本はソ連を研究して、対応策を考えていたわけだし。要するに人間が極フツーにやっていることを機械がやっているからといって毛嫌いしているだけだろという気がする。人間は目的があって機会を作っているわけであり、結局機械を相手にしているつもりでも、その機械を利用して何かを企んでいたり、機械を作ったり作らせたりしたという、背後の人間を相手にすることだと思うんだが。
 しかし、前回今回のこの訴求力の弱さを振り返ってみると、本当にスタッフは本気で作ったのかどうか、ある意味逆説的に述べたいことがあったのではないかと疑ってしまう。'60年代の高度経済成長総仕上げの時期で、品質は粗悪ながらも生産力が向上してきた時代だろ?。そのような背景のなかで、やはり労働者が機械の都合に合わせてこき使われたということが明らかになってきた時ではなかったのかね…という気がするわけだ。機械に勝利する人間ってところが強調されているわけだし、かといって対立軸たる人間側の理屈が弱いんだよな。がんばり?。いやこずえがいみじくも述べていた通り、守るべきものがあるってことなんだという気がしてならない。生産性向上を述べてこき使ってくる経営者に対して、家族を食わしていくために要求を実現することしか選択肢がないって時代だわな。守るべきものが何かが明示的に語られてないわけで、なんともな…。
 で、桂のこずえを恨んでいない発言もやっぱ上滑りなのかね?という印象は強いのだが、やはりここは上層部批判を許されない現場の人間のせめてもの表出という見方もできる。香は会社社長、静は鬼の現場監督、そして桂は末端の労働者なのかねぇ。自分なんかは今まで見てきて、桂の再起不能はこずえの責任というより、香や静の強制が原因とずっと思い続けているわけだが、仮にそうだとして、やっぱり桂は姉2人を批判できないだろう。で、再起不能になった自分を辱めず、姉2人の批判をせず、顔を潰さない対応法が「敵が非常に強かった」というもの。ブラック企業のデスマ社員が、競合相手の社員を普通批判はしないだろ?。ましてやこずえはズルなどせず、正々堂々と戦っているわけだし。
 そういや政府ってあんまり高度経済成長という言葉を使って昔を美化することがほとんどなくなってきたよなという気がする。その代わりに使われるのがいざなぎ景気。'65〜'70というから、この時代ドンピシャだろ。大体このぐらいから終身雇用が慣用化してくるし、やっぱ八木沢三姉妹とか、昔の企業のメタファーなのかね?。会社が家族的雰囲気とかなんとかで、社員に家族同様の奉仕を会社に対して求め、昇給で報いるとかそんなの。八木沢母も厳しかったが、三姉妹ともむしろ自分から進んで指導に従っていたわけで、二代目が自分がモーレツ社員のつもりで会社を振り回すってのは当時は当たり前のことだったのかも。
 というわけで、対寺堂院戦では、富士見チームの仕上がりに感心し、対東南戦にかけては、たぶん当時の日本に蔓延していた労働環境の悪さに嘆息するという流れだった。なんか単純に機械に人間が勝ったと喜ぶのはあまりにも天然なのかも。どうせフィクションなんだし。