第10話「サドン・デス」その3

 さて、昨日は延々と機関長の死を安直に描くことが目的であったと述べてまいりました。感動させることよりはむしろ犬死であることを感じさせることによって現代社会のやるせなさを表現するつもりだったのかもしれないということです。さて民主主義がどーのこーのと言いましたが、むしろ「メッセージの山場」としては、「マスコミのあり方」のほうが重要だと思います。ガチで描いていますし。
 前回の描写にもありましたが、どうも王国側に内通者がいるらしく、特殊部隊の行動をスパイクスは知っていたようです。そしてそれを派手な報道として利用したというのが今回の描写なわけで。で、アマテラスが沈むことによって今回のキビ騒動の幕引きとするというシナリオだったということが語られていました。もしスパイクスが襲撃をアマテラスに知らせていたとして、乗組員が対処をして大過なく過ごしていたら、視聴者はどのように思うだろうか。やっぱり襲撃があって事件になっていたほうがスクープとして見られたのではないでしょうか。
 現代の我々の最大の敵は貧困でも飢餓でもなく、“暇”がそうだといわれています。日本国民全員がそうであるともいえないのですが、高度経済成長期を終わり食えなくて死ぬということがめったに起こらなくなりました。ここんところちょっと怪しい雲行きではありますが。今の状況はローマ帝国末期と似ているところがあると考えています。自分の国を自分で守り、勢力を拡大し、ギリシャ時代からの知識の蓄積をうまく利用して巨大な国家を建設していきました。しかし巨大になるとローマ人は自分で働かなくなり、奴隷をこき使って暮らすようになります。享楽的になったローマ人の代表的な台詞に「パンと娯楽を」というのがあり、ローマのこの時代と日本が奇妙に一致します。その娯楽の提供者としてマスコミおよびメディア関係者というのが描かれているわけです。
 たまたまワイドショーで新潟地震の数ヵ月後のことをみる機会がありました。地震後の避難生活で家において来たペットのことが心配だとか、地震前に行っていた散歩が出来なくてストレスが溜まっているとか言っていました。今そんなことをいっている場合ではなくもっと他に考えることはあるだろう?と見ていて思っておりました。もちろん地震がなければそれらは失われずにいたわけですのでそう思うことはもっともだと思うのですが、取材に対して個人的なことを答える、もしくはそれを報道することはいかがなものかと感じました。もしかすると本人は面と向かっては言わないのかもしれません。マスコミにはめられた形でうっかりと言ってしまい、発言がマスコミに都合よく利用されてしまった可能性もあります。しかし災害で困難に遭っているので、できることならみんなで助け合っていこうという風潮だったように当時は思いました。だから個人的なことを優先させたいと願っている被害者の姿を見せつける報道をあえてするマスコミの意図やその背後の大衆の意識を想像してぞっとしたものです。
 ディータがスパイクスを「悲劇を売りにした歪んだエンターテイメント」といって非難しますが、スパイクスを責めるのは的外れな気がします。スパイクスはあくまで視聴者の望む「報道という名のエンターテイメント」を忠実に提供しようと最大限努力しているだけです。もしスパイクスのやっていることが許されないことであれば、当然視聴者からクレームがくるだろうしそっぽを向かれるはずです。しかしそうはならない。現代でもそうであるようにたとえ極端なことが起こって非難がおこったとしてもその場限りでまた「報道という名のエンターテイメント」が求められつづけるわけです。独裁制で民衆がそういうあり方をどうすることも出来ない時代ならともかく、今は民主主義の時代です。力の強さ弱さはあれ、本当に許されないことであれば我々の手で改善することが昔よりは容易なわけです。しかし、意図的か無意識的かにかかわらず、目の前のえさにつられて社会を壊す手助けをしてしまっているわけです。まわりまわって自分も傷ついてしまうのに他人を傷つけるようなことを民主主義とか自由主義の名で行っているわけです。
 スパイクスは、そういう背景を知ってはいるんでしょうけど、あくまで自分の責任で仕事を続けようとします。面白いことですが、今までの会話の中に「視聴者のために仕方なく」、「視聴率」なんて言葉がまったくといっていいほど出てきません。自分が他人にあくどいと思われようと、決して視聴者や社会のせいにしようとしていないように見えます。始まってからそうなのですが、スターシップ・チャンネルでアマテラスの報道を見ている視聴者が描かれないのも特徴的です。もっとも最終場面で描かれる可能性はあるのですが。
 ではマスコミの正しいあり方ってどうなの?みたいなことを考えてみたいと思わないでもないです。しかし自分が考えたからといってそうなるわけでもなく、ならば考えるだけ無駄のような気はします。むしろマスコミやその支持者の意図を常に念頭におきながら、報道をネタとして楽しむほうがはるかに有益な気がしています。
 そういやシノンの泣きの作画には力が入っていましたね。