彼女がフラグをおられたら 第13話

 結局職業属性とはなんだったのか。
 第10話ぐらいから、この最終話を視聴するために結構連続して視聴してたから他のアニメのローテを崩さぬよう数十話をこなして疲れた。この最終回で明らかになったことがあり、多少の自分の読みの修正は行わなければならなかったが、それでもそんなに大きく変更ってこともなかったような気がする。
 この作品が中高生向けかと思っていたんだけど、主人公が過去の記憶を今まで失っていたということから、むしろ年齢層は高めと思った。主人公が高校生というのもターゲット層に合わせて…というのが定石ではあるのだが、この最終話で再度、そもそも第1話の初めに主人公が相手にするフラグは社会人のそれであり、そこでわかっていなくてはならなかった。よくよく考えてみれば、初期はもうベタベタの萌えフォーマットであって、いくら伏線でシリアスな部分が混ぜられていても、こんなに見え透いたエピソードを中高生がそもそも喜ぶはずが無い。いろいろ振り返ってみれば、数日間“昼夜を問わず”連続して行われる体育祭や学園祭などのイヴェントも、現実社会を見てみるとそういう学校行事はないわけで、むしろ昼夜問わずなんらかの作業をさせられる仕事かなんかのメタファーと考えるほうが自然。とはいえ、主人公が記憶を失ってどちらかというと癒される局面なので、現実の職場に漂う悲壮感はそこにはないというだけのこと。
 まぁいちいち今までのシーンを検討していたらキリがないのだが、結局サクラメント&ラプラスの魔がなにを重視していたのかというところで、それは絆と強い心を持ったものゝ自己犠牲とか言っていて、そりゃ絆は職場では互いの足の引っ張り合いをして潰しあうようでは崩壊するだろうし、自己犠牲についても、一兵隊が自己犠牲を強いられるという現実の職場でよくある局面を肯定するのではなく、主人公が王族設定されているからには、そこはむしろ経営層や管理職にこそ(現状大抵そいつらは無責任体質であって平社員にこそ自己犠牲を強いる存在だから)、責任を負えと言っているに過ぎない。船は基本的に会社組織などのメタファーであって、プレミアムアンブリエル号のことは、倒産寸前の会社でなんとか維持しようとしていた過去の体験ぐらいのもんだろう。天使客船はさしずめ泥舟状態の今の日本といったところだろうが、そう指し示すサインは見当たらないし、主人公やその周辺のキャラが協力してなんとかできるようなものでもないから、基本は解決されるべき問題一般ぐらいに考えておいたほうが良いだろう。あとかなり重要なことゝして語られていたのが“約束を守る”ってことで、まぁこれはお勤め人なら言わなくてもわかることだろう。
 あ゛〜、あと職業属性ねぇ。魔法ってのは権力のメタファーだったりするのだが、じゃぁ茜が大財閥の娘だからそれっぽいことをしてたか?と言われたらそんなことはないし、基本納得がいくレヴェルに達していたのは忍者林ぐらいのもん。自分はせっかくJRPGの体裁をとっていたのだから、それぞれの特性を生かした描写があるのだろうと思っていたが、とんだ肩透かしだった。が、別に意味が無いわけでなく、結局のところ、この作品の描こうとしていることを考えると、主人公を含むパーティーは会社などの組織だろうから、名前に表された職種は、例えば会社だったら総務課だとか営業部などの部署のメタファーであって、そうだとすると別に会社の総務課がどのような仕事をしているのか詳細に描く必要がこの作品では全く無いわけだから、その程度でよいということになる。
 とまぁ、終わってみれば普通に社会人(もしくはこれから就職していくであろう)などの読者、視聴者に対する応援歌であって、単に萌え要素を盛り込んで視聴者に媚びた作品でもないし、かといって社会を変革するために深く掘り下げたというほどの作品でもない感じ。そもそも自分がこの作品を視聴しようと思った動機が、自分の友人がこの作品を2〜3話で見切ったという事を聞いて、それほど酷い作品なのか?と消極的な興味が湧いたからであって、うん、まぁ自分的にはそう無下に切り捨てるべき作品とも思わなかったなといったところ。とはいえ、最初の数話のみだと確かにテンプレ通りの萌え描写てんこ盛りで、そりゃ悪酔いもするわなというのは素直に感じる。
 本当なら章なり項なりを変えて別物としてエントリーすべきなんだろうが、この作品にせよ、冴えカノにしろ、それら一連のラノベ原作作品を見て思うのが、物語消費の商売がなかなか難しく、作家達も苦労してんなぁといったこと。そもそも純文学自体が売れなくなって久しいし、大衆文学もなにから出版業界全体が沈み行く船であって、コンテンツ商売であるといえばおそらくアニメ業界もそうなんだろうなと思う。社会的なメッセージを直接届けるのも難しく、じゃぁそういうのを大衆に寄り添う媚びる形で示しても、大衆がどの部分をヴォリュームとして評価するのかというと、それはやはり萌え記号の部分にカネを落とすのであって、メッセージ性の部分ではないように思える。そういう構造は別に昔からあるにせよ、しかしながら、ある作品が収益性という面では失敗しても世の話題にはなり、たとえそれが具体的な世の中の変革につながらなくても視聴者の胸に刻み込まれて、わずかではあっても倫理観や物の見方につながって社会資本の何らかの足しになるということがもうありえない時代になったのかなという感じがする。友人と話していて大体そういう結論になるのだが、例えば顧客(消費者)にわかりやすいだとかなじみやすいといった形に添って何かモノなりサーヴィスなりを提供したとしても、こちらがいくら社会的文脈に沿って少しでも何か社会を向上させるようなそういう配慮というものには意識が向かず、大抵は消費者が最終的には業界を食い散らかすような形で社会が朽ちていくような方向に向かっているという実感がある。そういった状況では、モノやサーヴィスの提供者と消費者の間には対話は成り立たず、活動が進むにつれ消費者のレヴェルも下がるし、提供者も食い詰めていくばかりなので、もう大抵の提供者は自分が生きていくためにむしろ消費者を食い散らかす段階に入っているのでは?ということがある。そうしない業界はもう潰れるか、底辺で被差別階級に属して消耗し続けるしかない。別にテレヴィドラマでもヴァラエティでも構わないが、視聴者にわかりやすい方策を採っても、それで視聴者が向上することなんて現実には無くって、しかしそれでも視聴率を上げるためには昔と比較すると作り手側が驚くほど低俗方向に振らないと選択してもらえないとかね。
 作家もそういう状況と格闘しなくてはならなくて、もちろんラノベに育てられた作家もいるであろうが、こう萌えだとか自己満足の範疇から脱却してなんらかの高みを目指して作品を作りたいのだとは思う。しかし、そもそも萌えフォーマットを取らないと、コンテンツ業界では土俵にも上がれない状態で、ともすれば自分の作家性を前面に出せば読者の反感を喰らって退場させられかねない現状はあるのだろう。単純な萌えフォーマットに嫌悪感を抱きながらも、それに従わざるを得ない状況を、この作品でも冴えカノでもそうなんだろうが、「いや、作者としては決してそういう状況を正しいと思っているわけではないんですよ」ということを示すために作品全体をメタ構造にするということがなされていて、もう自分的にはうーんといった感じ。そんなこねくりまわしたようなことをせずとも単純に面白いテキストを書けよと口で言うのは簡単だが、それこそ情報が簡単に手に入る状態になり、検索不足ということがあるかもしれないが、調べつくされて、もし何らかの新規さを備えた面白いものが出来るのであればもう誰かやってるわなと、いろいろやり尽くして手詰まりになったから今の状況がある。しかも前述の通り、いくら自分の仕事にちょっとした工夫をビルトインしたところで見向きもされず、消費者に媚びて「わかりやすさ」、「受け入れられやすさ」を仕込めば仕込むほど、消費者は進歩するどころか退行してしまうという。最初っからレヴェルを上げたら見向きもされないし、受け入れられやすさを仕込めば、ゆっくりとしかも確実に自分の首を絞めることになるという、社会構造的に見ても手詰まり感が半端なくて、こう、ふと気付いたらどの業界もそうなってたというディストピア感があって愕然とする。
 結局最終回まで視聴したわけなんだが、推移として「これだけあからさまな萌え要素ばっかりなんだが、萌え要素であるというのは入り口に立つ前提条件なのだとしても、あからさまであるということには何らかの意図があるのでは」という手順を踏んだ。これだけ萌え要素がこってりなのは、こってりから胸焼けさせることによってその違和感に視聴者自ら気付いてもらうという、きわめて可能性が限られる、見方によってはヒねたやりかたというわけだ。果たしてこの作品では中盤にその萌え要素から少し脱線するというタイミングでようやくこの作品の見所というかオリジナリティに直面するということになった。その後はこの作品の全体的な構造を把握することに終始して、作品のメッセージ性を整理することで視聴を完走したわけなんだが、そういった作者側との対話を初めから切り捨てゝいたら、単純な萌え作品として消費せざるを得ず、そうなると凡百の作品の一つとしか認識できないわな。いや、対話できたからといって、作者側と読者側とで得られる共通認識が「世の中どこを向いても浅ましくなりましたなぁ」というのではどうにもやりきれない。いや、もちろん上記の通り、これは応援歌なのであって、別に世の中を見渡してため息をつくのが正しい鑑賞方法でもないだろうからなんだかなぁといった感じ。
 萌え表現がくどいとか、エピソードが陳腐であるというとか、そういうのはむしろそれを意図してやってるわけで非難には値しない。製作者側に言わせたら、「はい、萌え表現がくどい?、そりゃそう視聴者が思うように作ってあるから成功、製作者としてもそこがメインと思っていませんよ、他にもそういうげっぷが出る要素があるでしょ、それは視聴者がそう思うように作ってあり、物語的には重要ではないわけで、全体を視聴した上でそれを全部取り除いてください、取り除いたら心に残る部分があるでしょ、その部分を自分の中で再構築したら見えるメッセージがあるでしょ?」というもの。いやまぁ読解力がある人は最初っからわかるんだろうけど、自分的にはこういう段階を踏む。別にこういうことをしなくても終盤の展開でそれなりにわかるようにも作ってあるし、そういった意味ではテキストは良くできているとは思う。で、メッセージといえば最初にまとめたとおりなので、可もなく不可もなくといったところ。評価としてはそりゃ名作ではないけど、おもろ+から減らす要素があるか?と言われたら、テキスト的には全く無い。が、こういった作品を他人に勧めるかどうかといったら、ちょっとお勧めはできないかなぁ。そういったわけで、取り立てゝ評価をつけるつもりは無いというか。
 あと、何気に自分的にはOP・EDがお気に入りだった。しかし歌詞に深みはないし、むしろ旋律や編曲を評価したといったところ。EDがもう沁みるわけで、欲を言えば2コーラス目からはユニゾンでは無くハーモニーにして欲しかったかな。輪唱にはしてるわけだから、技巧的に検討はしているはずで、それでもすべてユニゾンにしたのは、ハーモニーにすると聴取者の意識が歌詞から逸れること、せっかく声優を使ってキャラ性を高めているから、声優の声質に集中させたいとかそういうのが考えられる。そりゃまぁ曲単体で売ってるわけじゃなくってあくまでEDとしてだろうから、その意図は全く正しいんだけどね。