澄田元日銀総裁が死去 プラザ合意にも立ち会う

 うーん、なんか自民党政権が終わりに近づいているのか、その庇護の元好き放題やって、日本を凋落させた人物が次々と逝っている。まぁWikiでも見てくれというしかない。

群馬県高山村に陸軍軍人澄田睞四郎の長男として生まれる。父方の先祖は伊予国宇和島藩士の家系。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)等を経て、1940年、東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。しかし、戦争の為、すぐに大蔵省を離れ、海軍経理学校に入校・卒業し、その後、従軍先のセレベス島にて終戦を迎える。戦後、大蔵省に復帰すると、順調に出世の階段を上り、1969年には大蔵事務次官に就任。「大物事務次官」の要件とされる2年間の任期を全うする。同省退官後は、輸銀に総裁として天下り輸銀退任後には日本銀行に進む等、所謂「ロイヤル・ロード」を歩み続けた。

1979年、前川春雄日銀総裁の下で副総裁職に就いたのだが前川が輸銀時代には澄田の部下であった為(澄田輸銀総裁時代に副総裁職に居たのが前川であった)、この人事は「逆転人事」として話題を呼んだ。5年間の雌伏の時を経て、1984年に念願の第25代日本銀行総裁に就任。戦後、大蔵省のロイヤル・ロードを極めたのは、山際正道森永貞一郎に続いて3人目のことであった。

日銀総裁の座に就いた澄田の前には、日米貿易摩擦円高圧力の難局が待ち受けていた。折からのアメリカの対日貿易赤字の拡大に際して、アメリカ側は日本側への政治的圧力を強めてきていた。1985年のプラザ合意でドル高是正が行われ、円レート決定は完全な自由相場制に移行し急激な円高となった。

澄田は金融当局の最高責任者の1人としてこの問題への対応を迫られ、円高不況への懸念により金融政策を大幅に緩和した。しかし、そのことが後のバブル経済生成の直接の引き金となった。1987年10月のブラック・マンデー後にはドル暴落懸念もあって、日本経済がバブル景気のただなかにあっても金融引締めへのかじ取りが出来ず、結果日本経済は日経平均株価が1989年の大納会(12月29日)に最高値38,915円87銭のピークをつけるまでの過熱に到ってしまった。

澄田は日銀総裁を退任した後、仏投資銀行ラザール・フレール顧問に就任。その後任には日銀プロパーの三重野康が就いた。

日本銀行総裁退任後、1993年2月9日の元外務大臣大来佐武郎会長の死亡をうけて、同年9月から長年にわたり日本ユニセフ協会会長を務めたが、高齢により2008年2月29日をもって会長職を退任した[1]。

2008年9月7日午後3時10分、肺炎のため、東京都港区の虎の門病院にて死去。92歳没

 ちなみに、ラザール・フレールはユダヤロスチャイルドの銀行。まぁわかりやすいわな。ユダヤのために日本の国富を消尽させ、その報酬としてユダヤ銀行でご褒美とはね。日本ユニセフは、言うまでも無いと思うのだが、いわゆる世界的な組織Unicefとは全く関係のない、福祉を喰いモノにする営利組織。なんつーか、仕事をした後の処遇でその人の功績がわかっちゃうとか、もうなんていうかね。どうせコイツにも勲章が与えられるんだろ。バブルなんて一般庶民は恩恵を受けたのは極々一部だけであって、ほとんどは関係がなく、株の狂乱に惹きつけられた層は見事にカッパがれたわけで、そのカネを懐にしまったのは昨日の野村證券の経営層あたりに、利益誘導された特権階級、もしくは銀行だ。地上げで生まれ故郷を追われたのは庶民であって、地上げで大企業や不動産業者や銀行、そしてなにより893が丸儲け。
 どう考えても、結果的に庶民を痛めつけ、特権階級を優遇したのはコイツなんだが、責任を取らずに天寿をまっとうか…。自殺者数3万人越えが連続して、貧しい層を死に至らしめているのに、本人やその一族はホクホク。やっぱ特権階級にあらずんば人間にあらずだよな。