アタックNo.1 第9話 破られた退部届

 四天王が入ることによって自分たちがあぶれる可能性を考慮しない部員。
 その他大勢は、バレーをすることによって自分を変革することに満足して、試合に出て自分が目立つことにそんなに執着していないのだろうが…やっぱレギュラーになりたいんじゃないだろうかとつい思ってしまう。しかし鮎原も一緒にやるのがいやだといったそのすぐそばから、四天王を必死で引き止めたりするもんで、なんか余韻もへったくれもないなぁと。
 さて、この数回でようやく一区切りついたので、懸案事項について片付けておきたい。それは日本的泥縄構造についてだ。スポ根モノにはよくある構造なのだが、

  1. 快進撃(成長)を続けていたが、強い敵に遭ってコテンパンにのされてしまう。
  2. 特訓をする。
  3. 敵を破る。

 という三段構造だ。物語の構造としては、壁にぶち当たった主人公が、それを乗り越えるというおなじみのパターン。これは明治期からの日本の伝統芸能なんだろうが、まず欧米からの新技術の導入があり、その改良でのし上がったという姿にも似る。で、困難を乗り越えるという描写は物語ではなされるものゝ、実際にはコテンパンにのされたまゝというのが多い。第二次大戦しかり、オイルショックしかり、バブル崩壊もしかり、グローバリズムへの不適合しかりと。
 しかし、このようなやり方は日本が失敗し続けている通り、まずい。なぜ欧米のマネをして、最終的に欧米に負けるのかわかっていないというか。
 まぁ結局言ってしまえば、情報収集・分析が無いんだよね。後先考えずに、それまでの自分のやり方で突っ走って、強敵に当たってドボン。さすがに実際のスポーツではそんなことは無い('64東京オリンピックでは、宿敵ソ連を徹底的に分析して対応している)のだが、行き当たりばったりで特攻してあえなく撃沈ってのは、周囲を見渡してみれば結構見つかる。
 で、頼るのが特効薬というわけだ。でも、それは本質を解決したわけではないので、目先の症状が改善されても、時間が経てばやっぱり行き詰まる。で、また別の特効薬を探すという始末。
 なんというかここ数話の顛末を見ても、やっぱそういう日本のドン臭さを感じてしまった。結果として四天王を倒せてしまったけど、こずえたちが砂浜で練習していた大学生に出会わなかったら、そしてタイミングよく大学の合宿に参加する時間的余裕がなかったら、そして合宿で木の葉落としを体得できなかったら、ダメだったわけじゃんかと。ミッドウェーの兵棋演習で、日本に都合の良いさいころの目を出し続けたあのバカバカしさに通じるわな。木の葉落としも大学生は「自分で考えろ」というもの*1だったし、川に落ちたボールが突然沈まなかったら…とか、沈んだとしても無回転ボールが変化しやすいというひらめきがあの疲れきった状況で普通は思いつかないよなとか、可能性の低いスイッチが都合よくどんどん入っていっているわな。
 まぁ黎明期のスポーツなんて、技法も指導法も未熟で、ちょっとした工夫が大きな効果をあげたりするもんだから、この作品の描写としてマズいというわけではないんだけど、ただ会社の経営だとか国家の経営だとこれは大変稚拙な方法といわざるを得ない。西洋だと演繹・帰納で試行錯誤を繰り返して市場調査分析に市場テストと何段階もの手続きを踏んで、それで大規模化なり市場公開というのをやっているわけで、プリミティブな部分で日本は負けているような気がする。商売がうまくいっていると見えても、その実、財界や政治家などの特権階級のコネの中でぐるぐる利権がまわっているだけで、特権階級と庶民ではうまくまわっているかというと、実は搾取構造しかなかったりというのはよくあること。
 まず、富士見学園中の弱点だの考えて、基本を元に何が足りないのか洗い出し、どうやって実力アップを図るトレーニングなりをしていくのかという視点が今のところない。なんか壁→特訓→壁→特訓の繰り返しはヤだぜ?。また他のチームと試合をして負けたら、その都度特訓をして乗り越えていくんかいな?。目を瞑ったまゝ漠然とした方向へ全速力で走ったら、そりゃ障害物にもぶつかるし、転びもするわな。他でうまくいったからといって無批判に新しい手法を取り入れて現場が混乱するのもあんまり見たくはないんだよな。登場人物たちがからっとしてなかったら、そりゃ物語も日本も先には進まないわな。

*1:実は効率は悪いものの、自分で考えさせる手法自体は成長させるためには適切な指導だったりするのだが