フルーツバスケットを第3話まで視聴する。

 動画サイトにて。いや、いかにも少女漫画原作っぽい出来なんだが、フツーにオモロイな。っつーか、こういったコミュがテーマの作品に自分が馴れてきたせいなのかな。もともとはOPが秀逸で、10秒ほどで涙腺が刺激されるとかされないとかのまとめサイトからの誘導なんだけど、メロキュアというか岡崎律子やっぱ偉いなと。自分なんかは言葉多めで内容スカスカな文章しか書けないけど、限られた語数で人を引き摺りこむってなんだかんだ言って感心だわ(Forフルーツバスケット)。
 お話はけなげな貧乏女子高生が主人公で、人間関係に消極的な優男と人に抵抗がないんだけど不器用な男が彼女を取り合う?構造のように見えた。基本男二人は男女関係に晩生で、主人公が二人を癒していくんだろうけど、説教じみているわりには胸にクるものがある。
 こういう作品がどうやら世界中に出回っているらしいんだけど、日本アニメの可能性というか、今後の世界の展開が楽しみだったりする。アタックNo.1がイタリア女子バレーに果たした影響とか考えると、決して世界に与えるものが少ないとも思わないんだよね。以下まとまっていない考えなんだけど、だらだら書き連ねてみる。
 うーん、なんつーかね、こういうコミュに関しての繊細な作品が海外で一定の支持を受けている(といってもあちらの腐やオタだけなんだろうけど)というのを鑑みると、日本の少女漫画的世界ってのは別に日本だけじゃなくって世界にも通じるものがあるんじゃないかと思ってしまうんだよ。あまり自分の欧米的道徳観が正しいとも思わないんだけど、アチラは元々ローマ時代あたりから部族的社会なのであって、「ヨソ」の人間は征服するか排除するかって考えだったんだろ。それが住む世界が手狭になって争いが多発して、それを緩和する観念の一つが隣人愛を説く「キリスト教」なのであって。実際にいなくなったのかは検証の機会もないし、どうやったらわかるのか見当もつかないんだけど、あの民主政治の見本といわれたギリシャ時代だって奴隷前提の社会だったワケだし、ローマ時代はモロに市民と奴隷が区別されていたと思うんだが、西ローマ帝国が崩壊したあたりで奴隷の存在が歴史的にクローズアップされなくなっている印象がある。封建制が確立したというあたりでは封建領主と領民の関係はあまり奴隷と主人というのを彷彿とさせないし、代わりにキリスト教信者がそれ以外の人間を差別するという構造のほうが印象深い。
 日本でもそうだ。もちろん古代から差別構造はあったんだと思うのだが、基本人間が住む場所に困っていない時代には争い事は少なく、居住可能区域が狭くなり他のコミュニティと接触する機会が増えると争い事も増えるって感じだ。その都度開墾して居住可能区域が増えるとある程度は争い事が回避できるのではあるが、昔はそもそも居住可能な区域で持続可能な人口抑制って考えがなかったわけであり、人口が増えればその都度争いが増えるって印象だ。まぁ史学的に支持されている考えではないとは思うんだが。で、自然な発達現象によって日本の人口が飽和に達した頃に、同じコミュニティ内に、差別される層を作ってガス抜きを始めるのが、多分被差別部落問題だったりするんだろう。鎌倉期に日本の人口が一千万ぐらいになっていたと思うんだが、まだこの頃は関東東北はまだ人口が飽和しておらず、地方では中央政府の意向がまだまだ無視できる状況だったのだろう。でも西日本ですら平家の落人が入植してきてもそれを養える余力があったのだ。が、飽和に近い状態であって、食糧増産のためには農業生産性を高める必要があり、そのための農業技術の向上が必要とされた。教科書的には鎌倉期に刈敷などの肥料、農地を休ませるなどの改良が行われていたワケだ。で、それを行っても農業生産性があがらなくなって人口を養えなくなるのが室町期のあたりなんだろう。だいたい被差別民がクローズアップされるのがその頃であるという印象が自分には強い。戦国期には濫妨が多発していたわけで、人が余っていたのだと思う。そして戦国期に発達した技術が民間に転用されたのが江戸期であり、こゝでレヴェルの高い技術によって開墾がさらに進められ、さらなる人口が養えるようになったワケだ。人肥などの発達や生産技術の発達によって生産性も高まる。が、それも江戸中期になると人口が飽和してしまって、人口抑制策をとらねばならなくなってくる。
 そうなると、限られた土地で養える人間がギリギリいっぱいって状態になるわけで、飢饉が起こればスグに餓死者が出てもいたワケだから、「人間が生命として生きていくためには」ギリギリの線を彷徨っていたことになる。今より人口密度が小さくてもギュウギュウ詰めなわけだ。そこでは人と人とが摩擦を避ける必要があり、そのための技術というか知恵は発達せざるを得ない。なにせ島国なのだ。他所に出て行くにしたって、文化も習慣も著しく違う他国への移住は著しくハードルが高い。出て行く所がなければ、中でうまくやりくりする他は無くって、でも被差別民を作ってガス抜きって構造も温存されてきたのが日本社会といえる。
 さて、西欧も中世までは入植の時代であって、他所のコミュニティと境界が接すれば、そこで起こったのは喧嘩である。結局のところ近代以降、ポストモダンである現在ですら彼ら(もはや西欧ではなく欧米になってしまっているが)のやってきた…というか今でもやっていることは、「足りなくなったら他所から奪え」という概念である。オモロイのはイングランドのあり方であって、彼らは日本と同じ島国でありながら、選択したことっていうのは日本で言う「中で何とかやりくりする」のではなくって、「足りなくなったら他所から奪え」というものであった。彼らの欲望は際限が無く、日の沈まない帝国になるまで他国からの搾取が拡大していったワケだ。そしてそういうやり方は今では合衆国が恥ずかしげも無く採用している。いや、もちろん日本も明治以降は西欧を見習って帝国主義、つまり「足りなくなったら他所から奪え」という方向に転換してしまうわけなんだが。が、特権階級レヴェルでは欧米式略奪法が採用されても、庶民レヴェルでは「中で何とかやりくりする」って手法が採用されていたのが昭和中期までだったのだ。足りない資源があれば徹底的に再利用するもったいないの精神、他人との共存のための知識が横町レヴェルで維持されていたのがこの時代までということになる。そして、それが崩壊していくのが日本では高評価を受けている高度経済成長期あたりからだ。結局のところあの時期から他国より原料の供給を受け、製品にして輸出するという加工貿易の形をとって国民を喰わせていくという選択をすることは、大局で見て日本国民全体が他国から搾取するという構造を選択したということになる。もちろん明治以降の際限の無い人口膨張政策のつけもあって、農業生産だけなら3000万〜メいっぱい5000万しか養えない国土で、一億以上の、いや現在では一億三千万ほどの人口を養わなければならないわけで、なんとかするには人材を育成してその高い教育レヴェルで付加価値を創造し、それで海外との取引を通じて過剰人口を喰わせていかなくてはならなかったというのは必然である。昨今では政治屋や経済界とやらがそういう構造を無視して、自分の保身のために国民を切り捨て、日本全体を崩壊させているわけなんだが、それは今は擱く。
 さて、昭和中期までの「人口過多状態での人間関係のやりくり」ってのを、いわば習慣レヴェルで実感できていたのが、自分より一回り下ぐらいの世代(から上)なんかではないのか?という気がする。それがフルーツバスケットあたりの原作者世代なんかなと思うのだ。バブルあたりから「カネで解決すればいゝジャン」というのが蔓延してくるわけであり。2000年前後から話題になっている、「自分から半径50cm外のところは無関心」という世代を生み出すことになる。いわゆるケータイ世代以降がそれに当たるという印象を受ける。まぁ自分の世代だって地獄の沙汰もカネ次第ってなわけだから、重なる部分もあるんだけど、「結局のところオマンマが喰えなきゃ贅沢はいえないし、我慢もしなきゃなんないだろ」というのが食料レヴェルで想像できるのは30代以上なんだと思う。いや、事情はもっと複雑で、20代以下がそういう人間関係を全くわかっていないかと言えばそうでもなく、むしろ就職状況の壊滅的な状態を幼少の頃から聞かされ続けているのがケータイ世代以降ではあるのだ。学校コミュニティでの陰湿なイジメを経験しているのも彼らであり、突出すると何かにつれ足を引っ張られるのを実感しているのも彼らである。自分たちの世代だと根拠のない自信ってのが若い時代には溢れていたが、ケータイ世代には初めから諦観ってのが備わらざるを得ない。見方を変えると、ケータイ世代以降こそが「限られた空間での身の処し方」を痛感して味わっている世代ともいえる。日本がバブル以降も政治や経済がクラッシュダウンせず経済発展を続けていれば、彼らこそが手のつけられない勘違い世代になった可能性は高いが、現実はそうではない。
 で、今やその「限られた空間での身の処し方」ってのが、全世界的に必要とされている時代なのではないか?という気がしているのである。合衆国なんかでも、学校コミュニティではリア充を頂点にそれはそれは酷いカースト制が蔓延っているらしいのだが、まぁそれこそ彼らは「足りないものがあれば、というか欲しいものがあれば他国から、つまり他人から奪え」ってな人種なわけで、そりゃ開拓期を終われば国外に目が向かない庶民はた易く自国内で搾取構造を組み上げるだろうなというのは納得のいく展開である。あの「ヒマさえあれば女を口説いてる」印象の強いイタリア人なんかは、大学生だと日本人よりよっぽど勉強熱心であるなんてのも最近知って驚いたが、やはり社会が停滞すると何処も苦悩するのは一緒なんだなと思わざるを得ない。
 そして、そういう閉塞社会を打破とは言わないまでもなんとか緩和していくのに役立つのが、狭い所でなんとか人間関係をやりくりしてきた日本の価値観なんではないかと思うのである。欧米の閉塞したスクールカーストに辟易しているかの地の若者諸君が、このフルーツバスケット的な作品を視聴して、なにか心に響くものがあるんだろうなと思うのである。客観的に見て、欧米型消費社会ってのは他国からの搾取を前提としてしか成り立たないのはわかっちゃってることだろ。いや、昨今のEU圏のドタバタを見ると、他国から搾取をしていたって破綻しちゃってるワケだから、世界的に共存概念ってのを新規更新しなくちゃならない時期には来てるワケだ。世界的な人口抑制、資源配分っつーのを国家間レヴェルで検討しなくちゃならないんだけど、結局のところ国連ってのは大国の利害調整役に過ぎないし、その内実は力で力を抑え込むって構造でしかない。人間の権力志向は無くせないとしても、それをある程度抑制する手法を模索しないことには、今後資本主義経済がクラッシュダウンするのは不可避にしても、それ以降の世界の再構築がなされないと思うんだよね。で、日本の繊細な気遣いアニメってのが欧米に対しての啓蒙的作品になりうる…というか、部分的にはもうなっているんじゃないかと思うのである。いや、説教アニメでいゝんだよ。どうせ欧米の連中は何百年経っても、というか、もう千年以上問題解決は力でってとこから脱却できてないんだから。
 フランスがワインなどのブランド戦略をとっているとは良く聞くんだが、やはり日本はアニメが文化侵略というか世界的文化浸透の手段としてそうならざるを得ないんじゃないかと。成果というか影響が出るのはイタリア女子バレーが20年ぐらいの歳月を要したのを鑑みると、多分50年ぐらい、いや早くてあと30年ぐらいはかゝると思うんだけどね。そして、残念なことにアニメ製作者にはほとんど金銭的な報酬が得られないんだろうけどね…。