ロケットガール 第8話「セパレーション -separation-」

 どうやら引き上げプログラムがあらかじめ用意(想定)されているらしいことにびっくり。
 まぁ普通傑出した能力が一つ二つあったとしても、要求されるすべての能力がある基準を超えてない限り切り捨てられるのが普通のはず。そう今回の例で言えば、茜はさっさと切り捨てられて彼女より優れた能力を持つ別人が考査対象になるって話。宇宙飛行士になりたい奴なんてそれこそ星の数ほどいるわけなんで。
 しかも貧弱な体力を向上させるプログラムが用意されていて、どうやらそれはかなり効果があるような感じなのである。体力なんて実はもっとも向上させにくい能力の1つ。そいつが生まれつき持っている最大定格までしか近づけないわけで、どんなすぐれたコーチング・トレーニング技法を使ったところで、最後の結果を決めるのはそいつが生まれつき与えられた動物的能力でしかないってのが、まぁ特にスポーツの世界なんかの定説になってきているらしい。ルールを複雑にすれば頭脳戦に持ち込むことが出来るから、そうなってくると動物的能力と思考能力のバランスで勝負が決まるようになってくるが。それにしたって勝負の初めから最後まで冷静な判断を保つことが出来るという条件が満たされなくちゃならなくて、それを決めるのは結局体力だったり。
 でも組織としては人間の能力を向上させるシステムを構築するだけでコストも時間もかゝるので、システム用件を満たす人間を使い捨てにするのがあの世界ではなかったのかとも思わんでもない。そうでないからこそ感動もするのではありますが。先の大戦で日本はモノがなかったから人間で補わなくちゃなんなかったので、航空機パイロットの養成システムはすごかったのかもしれない。しかも金を使わないで育て上げるっていうか。アメリカはとにかく生産力があったので、パイロットの能力が低くても数と技術で補うことができたから勝ったわけで、まぁ日本が負けたのはいくらパイロットの技能で補うことができていても、高技能な人材が使い捨てにされて払底してしまえば、装備もパイロットの技術も貧弱になっては勝ち様もないだろうと。まぁ作戦遂行能力のない指導部の責任もありはしますけどね。
 今の日本もそれに近い状況かな。戦争は人が使い捨てにされるというのが前提の世界だが、いくら企業間の争いが戦争に喩えられるとはいえ、実際には人が死ぬことはない。しかし組織において無能な人間が自分の地位保全のために高技能な人間を使い捨てにしたりすり潰しているようではお話にすらならない。人死にが避けられなかった昔ならともかく、今はそういう条件はユルいはずであって、その中で衰退していくってのはやっぱり社会のレベルが下がっているということなんだろう。
 さて今回はあまり技術的なギミックが少なかったせいか、全力でツッコむ場面はほとんどなかった。体力のない茜が結構がんばっていたので、なんのかんのいっても最後までテストをこなすのか?と思っていたら適切なところでリタイヤさせてましたので単純なお涙頂戴モノでなかったのもグー。またまた大いに泣かせていただきましたよ。
 茜がすべてをなげうってソロモンに来たってのは今の感覚でいうとありえないかな?と思わなくもないんだけど、それは今は小学生のなりたい職業ナンバーワンに公務員があがるようなご時世になってしまったからであって、自分の可能性を試すためにむしろ世界に飛び出していけとばかりに海外への一人旅が流行った'80年代後半〜'90年代前半の感覚からいうとむしろ肯定的なんだよね。自分の殻を破るとかモロそんな感じ。これが自分探しの旅が流行りだす'90年代後半から変質してくるんだけど。