ヴォランティアの必要性

 煎餅布団に寝ているやつれた初老の男が咳き込む。甲斐甲斐しく世話をする若い女。「いつもいつもすまないねぇ」「お義父さん、それは言わない約束よ」…
 私が子供の頃の時代劇にはこんな場面がよくあったような気がします。老父母を世話するのはその子供や配偶者という意識がその頃はまだかろうじて残っていたのかもしれません。まぁ面倒を見ることが一般的であったのかどうかは実感としてないのですが。めったに無い美談だから劇に取り上げられたのかも知れず、良くある日常だから視聴者の一体感を得るために取り上げられたのかも知れず。
 ホームドラマはあまり見た記憶がないのですが、それでもその後嫁姑の争いというテレビドラマがその後流行りだしたような気がします。老人の世話はしんどいものだとは思いますが、それでも家族とは憎しみ合うべきものなのか?。とにかく家庭でつらい思いをする女性の姿が描かれ、外で働く姿が輝いて描かれます。会社で男性と肩を並べて業績をあげるキャリアウーマン。家の中で止まったような時間の中で朽ち果てていく専業主婦のイメージ。
 バブルも成長していき労働力が求められていた時代ですから、女性には家でくすぶってなどいられては困るわけで、ぜひ民間での労働力として期待もされ、そのための政策もでっち上げられていきました。
 取り残された老父母はどうなったか?。それまで積立方式だった年金が税金方式になったり、各地で老人ホームが乱立したり(許認可や入札がらみでの不正も多発)、福祉産業への人材の誘導がなされ始めたのもこの頃だったような気がします。とにかく肉親ではない、他人の手に委ねられるのが一般に認知されてきたのもこの頃ではないでしょうか。子育てに関しても、自分が面倒を見るのではなく、人に面倒を見させるために母親がわざわざ働きに出て金を稼ぐというのがいいというプロパガンダがはびこって来たのもこの頃では?
 そしてそれに平行してヴォランティアなる概念が勃興してきたような気がします。つまり家庭内のことを外部経済化することと不可分な関係があるのではないかと思っています。身内が近くにいるときはまだいい。遠くにいるとか、身寄りが無いといった場合どうするか?。金はなるだけ出したくない人生の先輩に対する奉仕ということでヴォランティアか。安易だなぁ。
 高度経済成長期は中卒まで金の卵ともてはやされ、田舎から都市へのの労働力の吸収が行われていましたから、地域共同体の慣習をもっている人材が都市に集合しそれなりの扶助組織ができあがっていたのでしょう。しかしもともと生活と労働が分断された状態で居住区を形成していたために共同体的な性質が失われるのも時間の問題。郷里を離れている時間が長ければ長いほど帰郷もしにくくなり、親族の関係が希薄になるのもあたりまえの話で。都市が人口を吸収したまゝ、田舎に高齢者が取り残されるのも当然の流れだと思います。そこでヴォランティア?。都市という他人の海の中に取り残された個々の家族という孤島は、子が独立・共働き化で親世代が取り残される結果に。そこでヴォランティア?
 都市に出ればいい職にもありつけ、地方にいるときよりもより高収入で贅沢な生活も出来るという夢を見た選択の結果なので、自業自得といえばそうなのかもしれませんが、なんかやり逃げの後始末をヴォランティアに期待しているようでやるせない気分になります。