輪るピングドラム 第24話

 うーん、“青い鳥”?。
 ようやく終わった。視聴は結構疲れる。終わってみれば綺麗にまとまってはいるんだが、結局のところ、初めに結論を述べてしまったらお話にならないんで、メロドラマ風に引き伸ばし引き伸ばしという手法を使ったということなのか。
 自分がこの作品にちょっとついていけないでいたのは、悪質なミスリードが頻繁に行われていたせいなのだが、こうやって終わってみると、上記の通り、答えは既に物語(キャラ達の間)的には既知のことであって、「ピングドラム」やあと途中から提示された「運命の乗り換え」とは何か?という問いがもうひっぱられすぎていたことだったんだろうなとわかると、さもありなんといったところ。最終回で荻野目が運命の乗り換えの呪文とやらを明かすのだが、それは今回檻に入っていた過去の高倉兄が高倉弟に言っていたことゝ同じことであり、ほんでもって、それは過去高倉弟がマンションで一人ぼっちだった陽毬に言っていたことゝ同じであり、また、過去陽毬が火葬場で高倉兄に言っていたことゝ同じであって、それは即、なぜ元々赤の他人だった高倉三兄弟があれだけ仲が良かった(=運命共同体だった)のかの答えにもなっている。要するに高倉三兄弟の間では既にもう幸せの形は出来上がっていたのであって、問題なのは犯罪者の子供であるといった前提条件を如何に除去するかだけだったわけだ。そしてその幸せの形というものは高倉三兄弟の中ですっかり閉じていたから、「神の見えざる手」が陽毬を生命の危機に遭わせて社会との接点を無理矢理作って高倉兄弟が奔走するという形になっているという筋立てという風に整理される。で、運命の乗換えで高倉三兄弟は犯罪者の子供であるという呪縛から解き放たれる替わりに大切なものを失うという結末になる。自分は陽毬と高倉兄が罰を受けるという形になると予想し、それは外れたのだが、いちおう救われた形になる陽毬*1は、記憶を失うのだけれども喪失感だけは残るということになった。
 荻野目も結構結末としてはなんじゃそりゃというものになっていて面白い。おそらく彼女の家庭が崩壊していたのは彼女の姉の運命の乗り換えの代償の結果であったということなのだろうが、彼女が姉から受け継いだ日記というものが、姉自身の本当のメッセージの伝達媒体になっていて、それはおそらく「恋愛ではなく、人を本当に愛するということはどういうことなのか」というものを伝える遺書になっているということ。彼女は奇天烈な行動を取っていたが、高倉兄弟に絡まれることになって、それがなぜか転じて彼女が救われることになり、そして姉からの本当にメッセージを理解し、それを行動に移す段になって、その「本当に愛する人」と引き剥がされる結果になる*2というのがこう悲劇というかアイロニーというか…。
 高倉兄弟についてもまぁ同じことなのだが、これがなんというか、ちょっと形は違うのだが、人間になる替わりに声を失ったあの人魚姫のような、何かを求めるには代償が必要であるというのを極めた形になっているのがどうにもなぁ。運命の乗り換えに成功したのは高倉兄弟の努力の結果と言えなくもないんだけど、運命の乗り換えに成功して、それまで社会から阻害されていた彼らが社会との正常な接点を得られました(と見える)という結末自体は、そりゃお伽噺だよという提示がされているから、視聴者に対して努力すればなんでも解決するよという夢は見せていないし、かといって、その得られた社会との接点の換わりに得られたものを考えるとそれは本当に幸せなのか、例えば今回高倉兄は本当の光を手に入れたとか言ってたが、運命の乗り換えによってその本当の光は意味すら失ったわけで、運命の乗り換え後の生活が彼らにとって本当に欲しかったものなのかどうかは、視聴者として外部から眺めるものにとっては判断がつきにくいものになっている。
 その運命の乗り換え後の彼らのその後という形での提示を見ると、それまで、やれこどもブロイラーだとか、やれオウム真理教をモチーフとした事件とかで、社会問題をあれこれ語っているように見えながら、実は家族そのものゝ在りかたが述べられているのかもと思わせる構造もちらほら見受けられる。日本が貧乏だった昔は喧騒に塗れながらも家族同士の密接な関係があって、それが日本が経済的に豊かになって便利になったら、家族がよりよい方向に行っているのかと言われると、やれDVだの携帯電話依存でコミュニケーションを喪失したような家族が増えたゞのといったことも見受けられるのであって、そういうのがもしかして今回の運命の乗り換え前後で、そういう日本の家族の在りかたの変化を表しているのかもと思わされることもあって、いろいろな解釈の可能な形にはなっている。
 つらつら考えたらいろいろ切り口があるのであって、まとまるものもまとまらないわけではあるが、ちょっと提示されているであろうテーマについては考えるのをやめて作品の評価をするとすれば、これも結構難しい問題ではある。面白かったか面白くなかったか?と言われたら文句無く面白かったとは言えるが、ではこの作品が好きか嫌いか?と言われたら、そういう次元で判断はできないというのが正確なところか。テキストの出来が良いか悪いかと言われたら、それも文句無く出来は良いといえるんだけど、最終回まで視聴し終えてこの作品の伝えたいメッセージ(があるとして)を考えるとそれはgdgdとしか言いようが無い。もし冒頭に語られていた運命云々といった主題について言えば、おそらくこの作品は五分アニメの一本にでもまとめられる内容でしかない。いわゆるいつもの評価で言えばおもろ+ではあるんだけど、だからといってこれは人を選ぶ作品であって、よくできた作品だからぜひ見てみろよというものでは決して無い。人に薦められないからといって、じゃぁ今までの萌え作品のように萌え表現が酷くて、人として恥ずかしいからダメなのではなくて、嵌る人によっては老若男女問わず鑑賞に耐える作品であることも間違いない。
 今までだらだら述べてきたが、要するに一言でまとめればとにかく「人を食った作品」ということに尽きる。

*1:死ぬはずが生き続けられるようになったということ自体は、実は救われたことにはならない。なぜなら過去の話から陽毬に死ぬような持病があったという描写は一切無く、前述の通り高倉兄弟を引っ掻き回すために、言わば神のような存在に物語的に都合よく死ぬようにされたゞけだから。

*2:これも運命の乗り換えの代償ということなのだが、あの、「人は本当に欲しいものは与えることによってしか得られない」のさらに上を行く、与えても何も得られないという結末なのがこの作品の業の深さ