中二病でも恋がしたい! 第12話

 まさかのくみん先輩の中二病化。
 いやまぁ泣ける流れにはなっているんだけどなぁ。父親の死を受け入れがたい小鳥遊の逃避先が二年前の主人公の中二病の様子ってのがよくわかんないな。自分が思ったまゝ振舞ってよいという認識が、父親はまだ生きていて、自分はそれを可能にする能力を持っていると思い込むというわけで、逃避を正当化してしまったわけで、ヘンな話、主人公に出会わなければ時間が解決した問題なのでは?とすら思う。本当は小鳥遊も父親が死んでいることはわかっているわけで、そうでないと振舞い続けるということは、その口実を与えた主人公はより小鳥遊の現実の受け入れ拒否という症状を重篤化したとも言えるわけで、本当に中二病を見せたことが彼女の救いになったのかな?という疑問が…。
 自分がこの作品の最初の数話を視聴したときに、人生他人がどう思おうと自分が楽しんだもの勝ちという姿を見たような気がしたので、こう、最終回まで視聴して、小鳥遊の中二病は現実逃避の一手段ということが明らかになったら、なんかちょっと肩透かしを喰わされた感が強い。むしろそれを純粋に実践していたのは凸守なのかなと思うと愕然とさせられる。
 丹生谷に人は何かに病んでいるとか言わせており、結局のところそれが割と作品のメッセージとしては重要なんだろうけど、だとしても人はほとんどが中二病的な行動には出ないのであり、中二病がいかにも狐憑きのようなものって提言も救いがあるのかないのかよくわかんない。そうであるのなら中途半端に肯定すべきではないのでは?。自分としては別にそういう構造があろうとなかろうと、それも含めて全体をそれも若気の至りと笑い飛ばしてくれたほうがよっぽど納得できたよううな気がする。別に主人公や丹生谷のようにきっかけがなくても中二病になってあとから黒歴史と恥ずかしがるのも、小鳥遊のように精神的な痛みの対症療法としての中二病も等価なんじゃね?、丹生谷の言によれば。
 なんか難しいな。基本は中二病を介したラヴコメがメインだから、とはいえ、痛々しい趣味を持つ二人が意気投合して周囲にヘンに思われながらも自分を貫き通して結ばれるって形だと、なんでそういう作品を今更見なくちゃなんないの?となるだろうから、癒しとしての中二病という要素を組み合わせてくるのはそう悪くない思い付きではある。大抵のラヴコメは通じ合う二人がなんのかんのいって告白まで至ることがないのが大半なので、そこまでいって内面まで描くってのは割と思い切ったなぁと思わなくもない。ほんでもって、中二病なら、一般常識を持ったキャラはあまり関わらせないのが普通で、家族との軋轢を描くというのも思い切ったなぁという感じ。自分としては違和感はあるが、全体として大きな齟齬がなかったらそれでもオッケーかなという気はする。
 というわけで、間をおかずに続編を視聴してみる。ヒロインが中二病である理屈付けを考えるとそこに見どころはないから、一般的にはおもろという評価。考えさせようとする意図はあるけど、それほど深くないから+まではいかないという判断だけど、まとまった形にする上では妥当なものだし、自分が肩透かしをうけたと感じてがっかりしたという印象よりは実はまともな作品だとは思う。