ソードアート・オンライン Ⅱ 第13話

 なんかあっさりとデスガンが倒されるという。
 もっとゲーム世界でダラダラするのかと思ってた。第1期がそういう話立てだったから、これもそうなんだろうなとぼんやり思ってたのだが、逆に第2期はログオン・オフの繰り返しで直葉との現実の絡みが主だったので、こちらが迂闊だったとしか。が、以後どうするんだろな?。この作品の特色である以上、ゲーム世界を舞台にするだろうし、今までの話に関連しつゝも別話をもう一本やるんだろうか?。
 さて、なんというか、そもそもゲームで人死にが出た時点で警察案件だろというのがあるから真剣に論ずるのも意味が無いのだが、キリトくんがいちおう駆けつけはしたけど、当然ログアウトしてすぐに関係当局に連絡して以後新川君取り押さえになるだろうし、そうなるとしたら新川君シノン宅に訪問→和やかなお話→豹変って流れがなんかアホらしい。キリト君はシノンがすんでのところで手篭めにされるその絶妙なタイミングをはかっていたのか、どんなストーカーよ?と疑うレヴェル。新川君がシノンのお祝いに訪問するタイミングからすると、病院からも近いとされる距離ならば、切迫して駆けつけたキリトの到着と同じタイミングになるはず。なんかその辺甘いなぁ。
 あと、デスガンとの決着後はライヴ中継されていたが、キリトの嫁はあの決着をどう見てたんだろ?。あと、あのような優勝を分け合う様を見て、ギャラリーがよく盛り上がれるなとか。少なくともシノンは注目されてたキャラクターのはずだし、それが新参者と組んで同着ゴールってのはギャラリー的にどう受け取られるのか、ちょっと浅いんじゃないかな。そもそもこのイヴェントは個人が頂点を目指すはずのものだし、そりゃゲーム内でパートナーを見つけて協力プレイしたら有利なのは当然で、次のイヴェントから協力プレイが禁止されるか、そうでないならチーム制イヴェントが始まるとか、もうイヴェント当初から協力プレイ前提でプレーヤーが行動するとかそうなるんじゃね?。
 あと新川君の設定がなんともな。そりゃ年齢からして深みを期待するのは酷なんだけど、若者特有の自分しか見えないキャラであるのはまぁそりゃそれでいゝのだが、変態ですらなく、変質者にしてしまってるからな。この作品は結構善玉悪玉をはっきり分ける傾向があるんだけど、そうしちゃうとキャラにどうしても深みが足りなくなってしまうんで難しいところ。今回の件でいえば、人間性を持たない倒すべき敵なんだったら、なんでキリト(もしくはシノン)は人殺しにそんなに罪悪感を持つのかというところ。相手に人間性を認めることが出来ないんだったら悩むことなく倒せば済む話だし、そこは相手に人間性*1を認めるからその命を断つかどうかで悩む意味が現れてくるのであって、なんかたゞ理屈で人殺しはよくない、その善悪で悩む俺カッケーではねぇ。
 しかし、新川君も切り捨てられるべき人間として作られているので、まぁそれはそれで正しいんだが、なんか気の毒というか。現実で目をつけていたスケをポッと出のプレーヤーに掻っ攫われたんだからなぁ。そりゃもちろん彼がシノンの本当の悩みに寄り添うことをしておらず、自分の都合を押し付けるために善人を装っていたヤリたいだけの人というのはあるんだけど。それだから学校も続かないし、犯罪にも手を染めるんだよってのは、そりゃ真実の部分は大いにあるとしてもあまりに救いが無いというか。
 思わず長文になってしまったが、活劇として目を惹くものであるからこそ、触れ幅が大きく、現実との乖離は大きくなるって構造は自分でも驚いた。おそらく物語を作るうえで、わざと隙をつくってるんだろうね。物語としてのメッセージ性の完成度は高めないで、物語の持つ快楽性を利用して訴求力は確保するという。警察権力をかまさなかったのも、ネット世界はある意味無法社会であり、ネットの持つ可能性を信じつゝも危険性は除去できないし、全肯定されるべきものでもないってところかねぇ。別に現実社会のありとあらゆるものだってそうなんだけど、適度な距離を保って付き合えばそれはそれで(ネットは)便利なツールであるという、そういうあたりさわりのない結論を示したいわけではないんだろうなというのは奥底にあるんだと思う。そう考えると、キリトのネットや現実での人の生き死にゝついてのお悩みはフェイクであって別に構わないというところか。

*1:同じ共同体で支えあっていける存在である