蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- 総感

 今二度目を視聴して考えをまとめている。というか、この話って、振動弾頭を横須賀で拾ってアメリカまで届けたってだけの話なんだな。
 この作品では最后のほう、意志というのをクローズアップするんだが、メンタルモデル達の話を振り返ってみると、彼女たちはやはり現代のサラリーマンのメタファーみたく、口では業務命令即ちアドミラルコードに従うべきといゝながら、ちゃんとやりたいこと=意志があるっぽいんだよね。イオナですら、最后に意志を持ったという描写になっていたが、いやいや本当に最初から意志はなかったの?という疑問が湧く。そしてそれは形になっていなかったゞけで、しかもやゝこしいことに彼女自身に自覚がなかったせいで、意志=存在理由を探していた、つまり自分探しをしていたという風になっている。
 で、イオナというのは三歩下がって夫の影を踏まずの昔の女性像を髣髴とさせる。これまたやゝこしいことに、そういう女性のあり方がダメだっていう主張ではない。上記の通り意志というのはそもそも個人の中ではっきりとした形をとっているとも限らず、また、形になっていたとしてもそれが正しいかどうか(=コンゴウ)はわからない。この作品だと群像からして行動力はあるが、当面の目標しかはっきりしたものはなく、たゞ未来を変えたいというおぼろげなものしか持ち合わせていない。で、そういう群像についていくのが危険か?というとそういうこともない。
 あとは各話感想で述べたとおり、組織論に尽きるだろう。群像が艦長として組織をまとめながらも、基本は各クルーの裁量、または他のメンタルモデルを従えるのではなく共闘するという形をとっている。ブラックホークダウンを見ると、群像の指揮は、いろいろな状況を想定して各クルーと意思疎通をとっておき、現実の状況にあわせてあらかじめ設定しておいた方法を選択して…という形ではなく、ほゞ群像の判断、それも行き当たりばったり(群像の中では決してそうではないんだが)であって、あまり情報共有をしているとも思えないんだけど、それは物語の構成上、打ち合わせの部分を綿密にやってしまうと視聴者に戦術・戦略の妙を見せることができないからであって、現実にはかなり打ち合わせをやっているんじゃないかと思われる。でもまぁそういうのは擱いといて。
 で、コンゴウが古い縦型リーダーシップかと思いきや、そういうのとも違うっポイんだよね。むしろ群像が批判した日本陸海軍(軍務省とか言ってたから防衛省=自衛隊ではなく、軍隊になっているっぽい)や、アドミラルコードで縛られる霧の艦隊の組織なんだと思う。
 この部分を結構悩んで考えていたんだが、縦型リーダーシップが有効だった時代ってのは、人間が食料を十分確保できず、飢死の危険性が伴うような時代だったんじゃないかという気がするのだ。もちろん現代も油断をすれば国民が餓死する状況なんていつでも訪れるんだけど、そして食料供給が十分であっても格差を拡大して餓死者が出るような先進国が現代にもあるわけなんだけど、まぁ実はもう現代ってのは人間が食料を気にせず生きていけるような社会をデザインできる世の中にはなっているわけだ。しかし、人間の意識がそういう状況に追いつかなくって、食糧供給が不十分であった時代に有効だった略奪すなわちそれの拡大したものが国家間の戦争であるわけなんだが、そういうものを権力者もしくはシステム依存者の精神的飢餓感を満たすために使ってしまうという誠に困った状況が先進国・後進国問わず起きているんじゃないかと思ってしまう。
 誠に驚くべきことなんだが、実は少子化なんてのは、食糧確保にあくせくしなくても良くなった人類が人類社会を持続性のあるものに仕上げていくための自動調節機構という機能であって、そういうのは各個人が意識して人類社会のために少子化にするものではない。神の見えざる手ではないが、ある程度喰っていける目算が立てば、人間を増やすのは得策ではない。多産だった時代は、生んだ子供が生産力に即つながっていた時代であって、じゃぁ人間が増えたから豊かになったかといえば、すぐに飽和してしまって却って益々貧しくなっていたわけだ。江戸時代は耕地面積が増えなくなると人口増加が止まるが、あれだって結局お上が命令して調節できたわけではない。
 で、問題なのは権力層の権力欲なのだ。食料が十分に供給できなければ、人を組織化し、指揮して他人(他国)の富を効率的に奪うことができる。そのために軍隊が発達したわけなんだが、食料が足りてしまえば人は食料のためにあくせくする必要が無くなる。すなわち他人に指図されることもないし、お上の言うことを聞く必要もなくなる。ところが権力層はそうなってしまうと困るわけだ。人を組織化し、他人の富を奪う過程で自分の懐を余計に暖めるというのが彼らの動機であるから、他人が指図を聞かなくなってしまうと困るわけだ。もともと権力層は食欲(言わば足りるという意味での)は少なく、過度に富や地位を高めることに欲があるわけで、満ち足りた状況というのはまったく困った状況なのである。彼らは世界が満ち足りた状態であるということをもしかすると理解していないかもしれないし、理解していたとしてもそれは許されざる状況であると思うはず。そういう世界のダイナミックな変化を理解できないから、飽食の限りを尽くして地球を人間が住めなくなるまで壊してしまうというのが霧の艦隊が出てくる前夜的状況なんじゃないかという気がしたのだ。
 でもまぁ恐ろしいのは食料が全員に満ち足りた状況になったとしても、その生産手段を個人個人が持ち合わせているわけではなく、そういうのは結局のところ他人に頼るすなわち一部の政治屋の寡占的状況における政治的再配分に頼るのではなく、この作品で示されたとおり、各個人が考えていかなくてはならないって事なんだろうということなのではないか。で、そういうのは各個人・組織・システムにそれぞれのやり方があり、こうしなければならないってものはない。原作がどのような方向性かはわからないが、少なくともこの作品では霧の艦隊との対決と和解を軸に話が進んでいくという流れだが、本当に言いたいことはどのような社会を構築すべきか…それも固定した社会じゃなくて柔軟性のある形がはっきりしない社会を…ということだろうから、まぁ結論は出んワナ。それはスタッフが示すことじゃないから。たゞ、そういう社会は上意下達ではうまく行きませんよ、というのは示していると思う。現実にもそういうのを示した人間はいないし、そういうのを示すフリをして実は国民から略奪だけ行う上位組織ってのが多すぎた。「トモダチ」ってのがキーワードになっていたが、これも紛らわしくって、別に友情の大切さを示しているわけではなく、もうこの世界では誰が上司で誰が部下という上下関係ではうまくいかなくって、すべての人間が対等になるという象徴として「トモダチ」という語を使っているのだと思う。
 なんか、スタッフがこの作品を通じて言いたいことの主幹は何か?と考えて、それは原作を改変しているからある程度アニメ独自のものがあるはずで、もちろん原作から大きく逸脱するわけには行かないからはっきりしたものとも言えないんだけど、少なくとも今までの縦型な運営ではダメ…というより、上部組織による支配という運営こそが世界をダメにしているという描写はなされていると思う。では横型のつながりがいゝといっても、それは各個人が完成された人格、もしくは完成されていなくても、世界を把握する能力があり、各人が過度の私欲に振り回されることなく各個人を尊重した組織運営を目指すだけの素養がある…という条件が必要であり、これは著しくハードルが高い。タコツボ化しない個人主義なんだよね。そのための膨大な知識が個人に要求されるという。ではそれが無理か?といえば、そういう心持ちが戦後しばらくまでの日本の繁栄を支えていたのを考えると、実例としての成功過程は存在する。でも現時点での状況としては決してそういう方向性ではないんだよね。判断を放棄した選挙民の信託を受けたというのを基礎として政治屋が好き勝手して、しかもそういう状況を永続させるために政治屋が積極的に国民の判断力を奪うというこの状況では…。