リストラ話よりは書籍の行く末が真剣に語られているような。

 2010-04-15
 早期退職勧告を受けて退職を決意した人のお話なんだが、なんかアツい。最近iPadだの、Kindleだのが話題になってて、紙媒体の出版どうなるの?ってのがテーマだ。自分なんかは電子媒体の利便性を信じていたのだが、いざ青空文庫をディスプレイで読んだり、ネットでの電子媒体ツールの記事を読んだりしてみても、今一紙媒体の手軽さを捨てることができそうにない。保存・管理の利便性を重視すれば電子媒体だが、実際に読むのは紙媒体って感じだ。
 が、実際に自分の行動を振り返ってみて分析してみると、紙媒体の書籍はほとんど買わなくなった。かといって電子書籍はさらに購入の機会がないわけなんだが、じゃぁなんに触れているのかといえば、ネット上での情報だ。帰宅すればディスプレイの前で、ニュースサイトや掲示板のチェック。アニメも今、ほとんど日に一本ぐらいだから、ほぼテキストに触れる割合が多いのだが、そのテキストはネット上のものって感じになってる。で、最近の傾向として、落ち着いた意見の取り交わされている掲示板や、ブログのコメント欄を読んで結構得るものがあったりするって変化が感じられる。これは、上記リンク先のコメント欄、

ガモスー 2010/04/17 14:24
ゲーム業界・たぬきちさんと同世代の通りすがりです。コメント含め興味深く拝見しています。たぬきちさんも頑張って書き続けていただきたいです。

装丁について
たぬきちさんは「電子書籍」に未来を託しているわけで、そこに「装丁」の概念は無いわけです。装丁に拘っているコメントの皆さんは、「凝った装丁は電子化できない」という未来をよーく考えたほうが良いと思いました。

営業について
ここまでのコメントの論争だけで十分楽しめました。「面白い本は値下げすれば売れる。つまらない本はただでも売れない」発言は、ゲーム業界でも身につまされるお話です。(というか、商売の本質でしょう)

その他
以前もどこかで書きましたが、本当に自分は「書店」に行かなくなりました。何故って、無料で読めて、リアルタイムで進行し、場合によっては自分の意見で結果が変わるかもしれないというドキドキも楽しめて、諸々含めて面白い、という「掲示板」「ブログ」という名の「書籍よりも雑誌よりも面白いテキスト」が出来てしまったからです。

雑誌や書籍が売れないのは、この「無料の楽しいテキスト」との勝負を最初から放棄しているからとしか思えません。よって私は、安価で、衝動買いが可能な「電子書籍」の普及を楽しみにしています。それによって様々な職がなくなるとは思いますが、まぁ、それが未来の現実なのでしょう。

駄文失礼いたしました。

 にあたる。あと、なんでブログが(というより、面白いブログがってことなんだけど、トートロジーになっちゃうんだよな。)面白いのかっていえば、自分の考えを荒削りのまゝ、見映え良く整形しないって側面もあると思う。これも米欄より。

第四解剖室 2010/04/17 00:03
自分の感じてることを大多数の人も感じているであろうという思い込みって誰でもしてしまいます。
賢い人はそれを避けるために一生懸命考えます
賢明であるために。

今回たぬきちさんがそれをされていないのは
いいことだと実は思っています。
ステイフーリッシュは一種暴力的ではありますが
そうでないとできないことがあります。

全方位的に賢く正しい認識など必要ではありません。
今のあなたの暴力的なまでの動機付けにしかできないことをやってください。
私は支持しています。

たぬきちさんには釈迦に説法かもしれませんが。

 自分も意識しているわけではなくて、ほんとチラシの裏書きをそのまゝこの場に書き散らしているだけなんだけど、まぁ自分の駄文はともかくとして、客観性をあえて無視する態度をStayFoolishというのか。なるほど。
 さて、実は今までの部分は本筋ではなかったのではあるが、この部分にちょっと引っ掛かった。これは本文。

今、多くの人々に楽しまれているのは、

コンテンツ消費ではなくコンテクスト消費だといえる。

つまり、特定の曲や動画などの1コンテンツが良いの悪いのではなく、

ある「文脈」にのっとって皆が参加して盛り上がれるか、どうか。

そういう場や総体を共有して楽しむという方向に、

エンターティメントの楽しみ方の主流が移行して来ている。



最近、何が面白い? と若者に訊いた時に、特定の「作品」ではなく、

流行している「現象」や「ジャンル」や

「WEB上の場」を上げるケースが多くなって来ていることに、気づくだろう。

それが「コンテクスト消費」である。

(ブログ「インタラクリ——インタラクティブと、クリエィティブ。広告とメディアの変化。新現象の観察記」より)

 ここでのコンテクスト消費ってのがまさに「流行」そのもののあり方なんだろうと。わざわざ新語らしく仕立てなくても、自分なんかは流行で、その雰囲気が理解できそうな気がする。こんなの、テキストという領域でなくっても、やれファッションだのという瑣末なことから、イデオロギーレヴェルの領域まで昔からあったことじゃんかと。で、別に流行に流される人間も、巻き込まれない人間も両方いて、それが意識的にせよ無意識的にせよ、対象物の意味とか記号を個人の中で処理できる人間、出来ない人間というか、するしないってところの違いでしかない。
 で、結局テキストが優れているから売れる売れないって話でもないだろう。今までずっと優れたテキストが売れ続けてきたわけではない。一過性の娯楽のようなものがむしろ売れてきたわけで、いや、自分が売れてきたテキストを優れているとか優れていないって断言するのはおこがましく、要するに優れたテキストがあるのではなくって、時節柄売れる売れないテキストってのがあるだけだ。で、売れるのがテキストである必要すらない。そしてこのような時代、モノだろうとサーヴィスだろうと売れなくったって、それは仕方のないことだろうと思うのだ。
 ここからはかなり駄文になるが、結局テキストが電子媒体に移行するか、紙媒体が残るかってのは一読者としてどうにもならないというか、考えても仕方のないことなのかなというレヴェルだ。今の段階では。携帯端末の普及で、公衆電話がホント一瞬と言っていいほど瞬間的に淘汰されたのだが、固定電話がすぐなくなったわけでもないだろう。使用頻度はともかくとして。出版社が売れる・売れないを基準に考えるのであれば、そりゃ仕方がないよなとは思う。例として挙げるのが適当とも思わないんだが、個人的には槇書房だの評論社だの研成社だのが潰れたら悲しいわな。
 で、この騒動を見るにつけ、会社の対応がなんか面白い。編集を切るんじゃなくって、営業を切るわけなんだ…。営業を切ったら、当然残った編集が、営業なり新分野なりの担当に流れていかなくっちゃならないわけなんだが、ホントたぬきち氏の言う通り、つぶしの効く人間から安全地帯に逃げていただく、そして会社としてできることは全力でするって感じに見えちゃうね。営業は編集の小間使いって立場でしかなく、市場とか現場の意見に近い人間の情報が入っていく風土では無かったっぽい。で、感心なのは、リストラの実行者がそういう社内の状況を良くわかってるんじゃないかという気がするのだ。年収1200万の社員に2000万の退職金を払うってことであれば、もし貯蓄が3000万ぐらいあれば45歳だとあと悠々とまではいかなくとも自適の生活ができそうではあるんだよな。地価の高いところにこだわらなきゃな。