アタックNo.1 第7話 四天王との出逢い

 早川みどりがすっかりいい人に。
 どうも6話を越え、自分自身が落ち着いて視聴できる段階に突入したらしい。最初の頃は現在の作品とのギャップに驚き、当時の生活観・価値観との相違に驚き…で、おのぼりさん状態だったのだと思う。今の自分の状態が冷静だとも思わないんだが、今のうちに整理できるところは整理して、いろいろツッコんでみたい。
 冒頭の一言ツッコみからしてそうなんだが、最初主人公側にないキャラが味方になった途端、なぜかまるで以前からそうだったかのようにいい人になってしまう。将棋のようである。敵の飛車角に痛めつけられて自分が成長するきっかけとなり、相手の駒を自分側に引き込んでしまうと強力な人材として縦横無尽に駆け回る。
 これは本作品だけでなく、あの頃の作品は大抵皆そうだったように思うんだが、結局日本人としてのアイデンティティーを昔は全員がある程度共有していたということなんだろうかと思う。今を振り返ってみると、かなり日本全体が派閥化してしまっており、特に今の自民党の方針である特権階級と下層民の格差拡大かつ格差固定のため下層民同士でいがみ合わせて、政治に向かないよう仕事漬けにしたりくだらない娯楽を提供して特権階級が上前をハねるという構造になっている。
 前にも触れたと思うんだが、この作品のキャラたちは、実は金持ちの子弟が主になっている。1960年代の東京の公立校はまだ学力崩壊など起こしておらず、むしろ公立高校から東京大学合格者を輩出していた頃で、その時代にわざわざオプション価格の高い私立に入れる経済力のあるという設定である。高校進学率も70%代で、スポーツにうつつを抜かす余力のある家庭がモデルになっている。
 転地療養で静岡の進学中学に入るこずえもそうだが、いかにも成金的な早川みどり、で、その友達でもあった柏木や一ノ瀬努など、もう金持ちばかりが登場。しかし、けんかの構造はヤクザ映画の系譜を引き、登場人物の家庭環境をある程度わかった上で庶民が熱狂してこの作品を視聴し、かつバレー人気を引き起こしたわけだ。いくら昔のほうが格差が激しかったと論じる人が現在もいるとはいえ、金持ちと下層民の間に今ほどの絶望的な軋轢が昔あったかといえば、そうではないだろうと思うのである。
 登場人物の中でも、嫌われ役に割り振られている台詞というのは結構どぎついものがあり、変に本音を隠していないだけにむしろすがすがしさを感じたりもする。たぶんああいう演出というか脚本というか原作のネームってのは、結果的に特権階級の横暴に対しての抑制効果があったのではないかという気がしないでもない。で、そのお嬢さんたちが上から目線で人をこき使うというわけではなく、バレーの一員として自分も必死で汗を流して働くという姿が示されているわけだ。喧嘩の最前線に位置して、部下達の不満を受け止めた上で、我慢させたり、もちろん自分も我慢したり、自分が率先して部下と一緒に困難に立ち向かう姿も同時に示されている。そこに立場の違いはあれど、皆おなじ釜の飯を食う仲間なんだ、いや同じ日本人、突き詰めていけば皆同じ人間なんだという主張になってしまっていると言っても過言ではないだろう。齟齬はあっても最終的には分かり合えるだろうという共通認識は幻想に過ぎなくとも昔はあっただろうし、経済成長の元、ある程度それが実現されていたという時代でもあったのだろうと思うのである。
 あと、富士見学園中のバレー部には最近まで顧問はいなかったんだろうなという事実におおらかさを感じたり、そのへんで今回の本郷先生の台詞回しにニヤリとしたりした。合併話なんて、昔は私立の経営が厳しかったのか?という想像をしてみたり、いろいろ尽きないものはある。あと一つツッコみたいところもあるのだが、多分次回ある程度結論が示されると思うので、そのときにしてみたい。