天保異聞 妖奇士 第2話「山の神堕ちて」

 やっぱりアーエル@新野美知の声はいいねぇ。
 こんなことを言っても益が無いのだが、まぁとりあえず。日本は言霊の国といわれており、そういう面も多々見受けられる。だからこそ言葉狩りなんてものをして本質から目を遠ざけようとしているのではあるが、それが問題を引き起こしている根本を全く解決していないことも周知のとおり。それが西洋近代の輸入によるものなのかはここでは触れないが。ただ、よくよく考えていただきたいのだが、古来日本は文字を自分から持とうと思わなかった国であり、それは現在まで続いている。ヤマト由来の伝説にしたって、文字伝承ではなく口伝えであったし、地域民話なども明治以降しばらくはその形を取っていた。寺子屋などの民間教育機関のおかげで江戸時代の識字率は高かったといわれてはいるが、落語などでは文字が読めなくて近所の隠居に読んでもらう描写があったりするし、地方経済、特に一次産業従事者に文字が読めることにそんなにメリットがあるとも思えないのだが、寒村などの識字率はどうだったのかわかっているんだろうかとさえ思う。
 そして漢字は言うまでもなく中国由来であり、日本はそれを輸入したのであって、それも漢字本来の意味を無視して音訳しちゃったりしてるので、仮に物事の本質を突き止める力が個人にあるとしても、それが正確に漢字という形に表されるというのは無理がある。現に甲骨文字・金文などの発見で、それまでなされていた漢字に対しての意味の再解釈がなされているところもあるぐらいだし。ただ、言葉の問題として、たとえ原意があったとしても人々の使われ方・解釈のされ方は時代によって変化してしまうものであり、その変化後のあり方を非難したところで使われてしまっているものは仕方がない部分もあって、やはりその言葉がある時代にどういう影響をうけてそういう使われ方をしていたのか?というのを事後承諾していくしか後代、いやその時代に存在している人にだってできないのではないか。
 だからといって言霊と中国文字のチャンポンをここで責めたいわけではなく、むしろ文化の混淆実験アニメと捉えるべきではないかと思っている。ほら、BGMも中華だし。
 今話ではあるが、なんかゲストがやけにあっさりしている。山の神なんて当時の人間だってそんなに真剣に信じていたわけでもないんだろ?という視点はなかなか面白かった。山神と父とを重ね合わせることにどんな意味があるのかと思ってしばらく考えてみた。最近父性の喪失なんてことが言われているんだが、そもそも適当な父性とはなんなんだろうか?と考えてみると思い当たるものがない。なんつーか現代まで天皇制が続いちゃっている(そしてたぶんこれからも続いていくだろうとは思うのだが)のだが、日本人はやたらと権威というものにすがりやすい*1らしくて、そしてそれはそれで一神教がない社会では合理性があったりするのだが、家族単位での権威の象徴的なものとしての役割ぐらいにしか父性は役立ってこなかったのではないかとさえ思えてくるのだ。とにかく共同体の成員が必要に応じて物事を決めるのではなく、いわば絶対不可侵のものが存在してそれを守りつづけて社会を維持していくというやり方では効率的に働いたと思われる。もちろん昔の日本がすべてそうだったわけではないとは思う。中央の意向が届きにくい地方では、むしろ共同体の成員による合議制がなされていたであろうし、かといって一度決めたことがながらく上手く行き過ぎてしまうと成員がその意義について考えてしまうことをやめてしまって、むしろ成立時には一時的な対処療法でしかなかったそれが「反論が絶対許されないムラの掟」化してしまった事例も多々あるに違いない。そういう悪しき旧弊みたいなものを父の象徴である斧で壊すという意味が込められているのならそれはそれですぐれた描写なのかもと思ってしまった。斧は古代中国では王の象徴であり、斧といえば農耕民族にとっては木を森を切り開いて人間の存在領域そのものを獲得していく道具なのであって、決して人殺しの武器ではないのだ。裏付けのない権威・父性を山神に託しているのかも知れず、妖を倒すのに原義に立ち戻っているというのはすがすがしささえ感じる。あ、付け加えさせてもらえば、近年パチンコに夢中になって幼子を駐車場内の車中で熱中死させる母親の出現で、どうも母性というのも自然に備わっているものでもないらしいことが判明している。父性がまやかしなら母性もまやかし。
 キャラの紹介はまだまだのようですな。次がそうなのか?。

*1:そして日本人のその性質を上手く利用して利権をさらっている層はいつの時代にもいるらしい