まよチキ! 第10話

 兄ちゃんに抱きついた後の展開はさすがに読めたが。
 紅羽の誕生日の巻。なぜに紅羽がこれだけ優遇されるのか?と思ってたんだけど、どうも奏の差し金らしい。今までの流れからすると、スバルと近次郎をくっつけようとする奏の思惑があって、そのための近親者取り込みってところだろうけど、こゝまでやるもんかね。でもまぁ奏はスバルが成人しても手放すつもりはないようだし、そうなるとスバルの配偶者となるべき近次郎とその一族をまるごと取り込むつもりなんだろうな。
 宇佐美の扱いが対照的でなんとも。スバルにそれほどの見せ場がなかったから、一段低く置くバランスだと思うが、家に霊が居るとか、今後も活かす予定でもあるんだろうか?とか思ってみてた。ナクルが紅羽に与えた厄除け眼鏡で居なくなったという細かさにはニンマリさせられたが、必要のあることだとも思えないな。まさに誰得。
 今回何が言いたいんだろ?と考えていたんだが、なんかぼんやりしているように感じた。今回もゆるい描写であんまり問題提起としてのフックが弱い気がしたんだよね。自分的に考えてみたのは、周年で誕生日を祝うことゝ、折り目折り目の行事にしっかり対応することの対比なのかな?という点。まぁ自分も幼少の頃は誕生日を祝ってもらうということはあって、たゞ親の思惑とは別にケーキだとか日常だと食べられないようなものが食べられるということに喜んでいたという記憶しかない。まぁあんまり自分としては誕生日を祝うということにそれほど意義を感じていないというのがある。
 そういや日本の歴史を振り返ってみて、あんまり日本では誕生日を祝うって慣習があったという気がしない。というか昔は数えで年齢としていたので、新年を祝うことで誕生日を祝うことゝ兼ねていたのかもと思った。となると欧州の慣習なんかなと思われるんだが、そういや昔は収穫というのが安定していなくって、一年というのがそもそも農事暦として設定されているというのもあって、豊作の年はともかく、飢饉でも起きればその年にボロボロ人間が死んでいたという状況があって、「一年無事にいき続けることが出来ました」というのを素直に喜ぶ行事が誕生日祝いだったりするのかな?と思ってみた。
 が、近代以降、先進国では食糧供給が安定してきて、必ずしも農事暦に従って無事に一年過ごしたことに一喜一憂する必要性が失われて来たんかなという気がする。というか、学校制度なんて農業が主であった時代には無かったわけであり、第二次・第三次産業に対応させんがための制度だ。で、今となっては子供の成長を判断するのはもう学校というか、近代産業に必要な人材になっているかどうかという基準しかなくなってしまっているような気がしないでも無い。そうなると成長ってのは学校の卒業だとかそういうので判断されるのも仕方がないのかなという気もする。まぁ成長ってのは社会制度が規定してしまうという側面はあるのであって、どっちが良い悪いって性質のものでもないのかもしれないな。
 が、なんだろ?。紅羽がコンサートに出かけてしまった近次郎に泣いて訴える描写を見ると、男はともかく女っていうか一部の人間は存在確認というのを間歇的におこなわないと揺らいでしまうのもいるのかなと思ってみたり。日常から感謝気遣いとは言われるが、続けてしまうと慣れてしまうものでもあり、なかなか難しいものでもあるんだろう。だから家族というか身内のなかで、日常に埋没して忘れがちなそういう存在確認、もしくは繋がりの確認を誕生日という機会を利用してやってやろうってのはそれなりに意義があるのかもしれないとは思った。
 しかし、自分は古い人間なのか、生活や実態との繋がりが断たれた儀礼に従っていれば、相手の存在を認めたとか相手を尊重した事になってしまうというのにはあんまり意味が感じられなくって困ってしまう。慇懃無礼というか、儀礼には従うが、容赦なく人を切ったりすることが横行している現代では、逆に機能不全をもたらしていないかとも思っちゃうんだよね。もちろん個人個人がやることには問題はないんだけど、なんか大航海時代キリスト教の倫理観を押し付けて原住民を皆殺しにしてきたスペイン・ポルトガル、そしてそういう宗教にすがって皆殺しにされた中南米の人々を思い起こさせるんだよね。特権階級は奪いたいものは庶民から奪うが、庶民は存在意義の確認は自分でやって勝手にガス抜きしてろって態度だからねぇ。