「分かち合い」の経済学 (岩波新書)、贈与論 (ちくま学芸文庫)読了。

 なんか胸につっかゝるものを感じるんだけど、いろいろ考えさせられるという点では面白かった。さて、どっちからうだうだ書こうか迷うのではあるが、贈与論のほうから考えてみたい。
 そもそも贈与について興味が沸いたのは、内田樹が「文化人類学的に言えば、人は贈与をされると返礼せずにはいられない」だとか、藤原直哉がこの世は贈与から成り立っているなんて言ってたもんだから、そのへん一冊本を読んでみたいと思ったのだ。あぁなるほどこの世は贈与と交換で成り立っているんだなとか思えたので、そこらへんの先人を踏まえておくべきかと。
 で、誤読かもしれないんだが、モースの言う贈与ってのは、返礼を義務とするものという書き方がなされてあったように思う。内田樹の言を聞くと、どうも贈与されるということは贈与する側の贈与される側への思いやりなんてものを想起させられるのだが、贈与に対する返礼をしないと組織の構成員とみなされないというものであり、贈与と言ってもそれは返礼もセットとなっており、一方的な贈与というのはほとんどないらしい。まぁそれは結局のところ交換となんら変わりがないよなと思ってしまった。まぁ内田樹のいう「返礼せずにはいられない」といったのも、むしろ贈与に内包される義務のことをいったのだとすると間違っているわけでもなく、贈与されると義務・任意に関係なく返礼しなきゃというのが自然に生まれてくると自分が勝手に思ってしまったということなんだろう。藤原直哉の言もそういうのを感じたのだが、彼は「そもそも赤ちゃんってのは自分では何もできないから他者から贈与されて育つ」だとか、「人間死んだら財産はあの世に持っていけないから、どっちにせよ他人に贈与せざるを得ない」というのは一つの知見だとは思う。
 たゞ、この本の面白いところは、「首長がなぜ首長として周囲に認められるのか?」ということに、「それは他者により多くのものを与えるからだ」というのにはビックリさせられた。ポトラッチという習慣があって、それは首長が気前のよさを示すために自分の持つ財産をほとんど使って周囲に振舞う行為なのだ。周囲に与えなくても財産を捨てたり壊したりすることもある。が、一貫しているのはやはり他者により多くを与えようとするためにその他者から権威を持つものとして認められるということだ。もちろん首長がポトラッチを行っても、それを受けた周囲のものは当然にして返礼するだろうから首長がスッカラカンってことはないとは思うんだが、なるほどこれは上に立つものとしてのあるべき姿なんだなと納得した次第。
 今の日本…に限らず、欧米先進国の特権階級なんだが、これとは逆なんだよね。他者から奪って自分の財産を増やし、自分だけが豊かになって、他者はより抑圧するってのが今の特権階級のあり方だ。賃金を減らしまくって、非正規雇用に突き落とし、こき使っておいて、「まだ仕事があるだけありがたいと思え」というのがその態度。周囲から奪った財を、じゃぁ返礼として再分配するのかといえば、自分が有利なように配分を決めているわけだろ。あぁなるほどそれで政官財・経営者だの管理職が今蛇蝎のように忌み嫌われているんだなというのが文化人類学の観点からすると非常に納得がいくのだ。モースも貨幣経済の発達が16世紀だか17世紀だかぐらいからの歴史の浅いものであって、古代ローマもゲルマン法も基本はこの贈与概念が根底にあったなんて言っていて、なるほど資本主義経済ってのが人間がお互いに支えあって社会を作って行くという本質からすると、それを破壊する方向性なんだろうなというのにしみじみと考えさせられるものがあった。
 この本が書かれたのがどうも1924年らしくて、しかもモースやその師匠であるデュルケームユダヤ系らしいんだが、国家社会主義に期待する一文があって複雑な気持ちになった。資本主義という言葉こそ使っていないものゝ、モースは産業家の強欲も戒めなければならないし、かといって共産主義までというのは行き過ぎで、中庸が重要だと述べていた。が、やはり贈与という名の交換、集団を成り立たせるための気持ちのこもった取引が重要だと結論付けているように思った。
 しかしなんだねぇ。中国の朝貢貿易も確かに貢物以上のものを相手に与えるからこそ中国が敬意を払われるってのも、この贈与論で説明できちゃうんだよな。で、日本はどうか?と言われると、なかなか難しい。律令制の古代だと皇族貴族は明らかに収奪という立場だし、鎌倉あたりでようやく御恩と奉公として返報性が重視されているぐらいだが、基本律令制だしな。室町だって鎌倉時代劣化コピーなわけだろ。江戸期も基本は幕藩体制ってのはやはり庶民から税を召し上げるって形で、歯向かえば鎮圧だったから、結局のところ贈与ってのを為政者が考えていた節は見当たらない。じゃぁ日本人に贈与という概念が無いか?と言われゝば、確かに権力側には見当たらないんだけど、庶民にはあるんだよな。今でこそ少なくなりつゝあるんだけど、やっぱ「お返し」ってのは庶民間では健在のようにも思われるし。他者により多く贈与するから敬意を払われて首長が決まるというよりは、他者から奪うことによって豊かになり権力をふるってより他者を搾取するってのは日本の権力者の特質なんだよね〜。いや、カネ持ちのすべてがそうだとも思わないんだけど、よりたくさん奪うものがより大きな力を持って他者を威圧するから、どうしても欲深な人間が上に立ってしまうというか。結局そういうのは他者の恨みをたくさん買って没落するのもいるんだけど、そいつが転げ落ちるだけならまだしも、搾取の過程でみんなが不幸になるからやってられないんだよな。で、強欲資本主義を一秒でも早く終わらせて、みんなが豊かになれるような方策を見出していくのが肝要なんだろうけど、日欧米の特権階級の皆様方が権力にしがみついている現状ではいかんともしがたく…。