夏目友人帳 参 第5話

 なんじゃ、このツンデレ妖怪たちは。
 中頃まで、これで泣かせる展開になるのか?、まぁこの作品自体視聴者を泣かすことが目的でもないだろうしなと思っていたのだが、クライマックスでキッチリ仕事をしてたよな。やはりやられてしまう。
 正直今回あたり感想を書きづらいのだが、ちょっと思い浮かんだことには、「弱者がなぜ神という描かれ方をされているのか?」ということかな。現代だと弱者は力のない者として描かれるが、この作品では割と力のある者のほうが落魄して…という描かれ方が多い。もちろん力のない者(中級妖怪・低級妖怪といった呼ばれ方をすることがあるだけに)もいるのだが、基本なんの素質もない妖怪が現れるという事はない。妖怪という呼ばれ方をされているが、人間よりも大きな影響力を持つ者として描かれている以上、基本日本のフォークロアとしては神と同一に考えるべきだろう。で、昔だったら彼らの持つ力が社会を維持する役割を多分に担っていたわけであり、現代ではそういう力は何の役にも立たないといった流れはあるだろう。
 で、自分なんかはこの作品で描かれる妖怪が、てっきり現代の弱者と重なる部分が多いとずっと思っていたのだが、第3期になるこゝに至って、なんかちょっと違うような気もしてきたのだ。状況によって気弱な神もいるのだが、基本誇り高き神たちであって、社会的に…というよりは、政治や権力強者に切り捨てられて無力感に苛まれている現代の弱者とはちょっと趣が違うというか。たゞ、妖怪たちが異能者という描かれ方をされているから、現代の弱者もどこかにとりえがあり、但し現在の社会状況ではそれが上手く活用されないだけだという見方もできるのであり、少女漫画の読者層を考えると、むしろその色合いが強いと考えるべきなんだろう。原作者の年齢を考えてもそのほうが自然なんだが、実は現代では使いものにならなくなった技術・風習を抱え持ち、昔を懐かしみ、今回の「会いに来てくれてありがたい」といったことなんかを考えると、むしろ爺婆向けと言ってもおかしくない。構造を考えると、いまや就職が厳しい状況で、働こうにも社会から拒絶されている若者向けというよりは、就職が潤沢にあって、働けばそれなりにスキルも身に付き、それによって社会に必要とされた老人のメンタリティに寄り添うような作品のような気がするんだよな。
 まぁこういう分析をしたところでなんになるんだ?とは自分でも思うんだが、それでもこの作品が青少年向け漫画連載としても決して小さくない支持を得、アニメ化もされてそれなりの人気を保っているからには、若者にも響くものがあると考えざるを得ない。旧きものへの懐古…というよりは昔は人(即ち本作では妖怪)がほゞ全員社会的機能を持って組織の構成員として何らかの位置を保っていたんだろうな…というのが想起されるんだろう。つまり痕跡から昔はこんなだったという全体を想像させる何かがあって、そういうのがLaLaと言えばむしろ繊細な感覚を持つ読者層を持っていると思うんだが、そういう層に想像力を働かせるだけの訴求力があるということなんだろう。となれば、己の欲得に固執し、動物的な感覚で日々を生きて搾取されている弱者というのがキャラとして登場しないというのもある意味納得ではある。