おとめ妖怪ざくろ 第3話

 EDは中身に合わせるのか…。
 総角とざくろの接近回。と、なにやら総角達の対立組織の影が。ざくろツンデレぶりもオーソドックスというか、ツンデレというより年頃のちょっと気難しい娘にはありがちな描写とも言える。
 ちょっと引っ掛かったのが、半妖の生まれ方。妊娠した娘神隠しに遭い、帰って来たときには腹の子が半妖とか言ってたな。フツーこういう話にありがちなのは、生娘神隠しに遭って、帰って来たときには妖人の子を孕んでいたってパターン。どうもこの作品は旧来の日本文化を取り上げながらも、極力陰鬱な日本の風習は排除しているっぽいから、望まれぬ子が生まれるというシステムを妖人に当てはめないための設定にしたんだろう。しかし、こういう設定にしてしまうとやゝこしいことこの上ない。この設定を揺るぎないものとすると、腹の子がどうして半妖、しかも妖人になるのではなく、人間と妖人の合いの子になるのか?*1にそれなりの説明をつけなければならない。そこらへんキッチリするのかよくわかんないな。もう一つはやはり口ではそう説明していても実際には生娘を攫って孕ませるというもの。昔の日本だと略奪婚もあったということだが、そうだとしても、なんで孕ませた娘をまた人間社会に戻すのかゞよくわかんないな。妖人にも雌雄の別があろうに、わざわざ人間との混血を望む理由が見当たんない。そうなると、いや実は妖人が生娘を攫ったのではなく、もともとある妖人とある人間の娘が合意のもと、子を為したというもの。ま、悲恋モノだわな。昔だったら生まれた子が障害者だったり多すぎる子だったりして望まれない場合、間引きが行われていたわけで、生まれてきた半妖が本当に望まれぬ子であるのならば、迷わず〆られていたことだろう。だが、忌み嫌われながらも半妖は育てられたワケだ。後述の要素も含めて妖人の立ち位置が良くわかんないな。
 さて、今回気になったもう一つは、妖人に対する偏見は都会では大きいが、農村ではそうではないこと。依頼にきた村長の態度がこれまた良くわかんないところではある。終始オドオドしていたというか、申し訳ないというか、ちょっと落ち着かない態度だった。これをどう解釈していいのやら。村で起こった神隠しの仕業を妖人サイドの行為と見なしていたが、妖人のしわざと見て、この事件を妖人に頼む気まずさを表現したものか、やはり妖人に対して偏見を持っており、そもそも依頼をすることに戸惑っていたのかわかんない。例をあげはしたが、結局のところ村長の子供をはじめ、農村の子の偏見のなさを考えると、やはり村長はじめ農村部の人たちは妖人に対する偏見はないと見るべきなんだろうけどな。人間である総角と半妖であるざくろを同室・同衾?という扱いにしているわけで、やはり偏見は無いとみるべきか。
 で、総角に妖人が理解されゝば、偏見はなくなるといったような意味のことをいけしゃあしゃあと述べさせていたワケだが、これは全くおかしい。農村部で妖人に対する偏見があまりなく、むしろ都会で偏見が大きいという現象を踏まえると、都市部というのはこの物語の設定では近代合理主義の進んだ地域ということであり、農村部のそういった妖人に対する考え方をむしろ旧弊とばかりに受け取っていたはず。とにかくありとあらゆる現象を科学的に説明しようとし、説明できるものを体系化して発展させてきたのが近代合理主義だ。で、説明できないものは非科学的だといって切り捨てゝきた。だから、方向性として都市部というのは農村部に見られた寛容性がどんどんなくなっている過程にあったワケだ。そこらへんお互い知り合えば融和が可能だという総角は、もちろん彼自身相互理解に努力している人であって個人的にそう考えるのは全然アリではあるんだが、あまりに現実無視の意見であることには間違いない。いや、昔の日本が近代合理主義に染まっていたというつもりもなくって、当然文明開化とやらに懐疑的な日本人もたくさんいたゞろう。民俗学だって盛んだったわけで、明治からの近代化だけでなく、戦後の経済成長だって疑問に感じていた日本人はたくさんいた。が、西欧化の恩恵に浴してなかなか主流にはならなかったんだと思う。西欧だって近代合理主義に懐疑を抱き始めるのはやはり文化人類学の発展を待たなければならなかったのではないかと思われる。マリノフスキーとか、レヴィストロースあたりが認められるあたりね。日本でもそうだったのだと思うんだが、工業化の弊害である公害なんかも反省の端緒だったろう。レイチェルカーソンの沈黙の春あたりかね。近代文明が世界を席巻し尽くしてから、西欧近代の一研究分野が前近代の見直しに気付くという皮肉。そういった意味では本作も一時は世界の工場といわれるほど科学の粋を極め、ジャパンアズナンバーワンといわれるほど近代経済を駆使した国である日本が、過去を振り返るというものになっているわけであり、なんとも複雑な気分である。そして理解が進めば不合理はなくなると主張してしまうという傲慢。ともすればほとんど気付くことなくスルーしてしまう事柄なんだけど、総角の一言は軽く流されるからこそあまりにも重い。
 今回気になったのは、半妖の由来と妖人に対する新旧日本人による見方の違いの、この2点。後者に関しては農村部の人たちは妖人をむしろ神と同一に見ていたんじゃネェの?という点はあるのだが、それはおいといて、妖人っていったい何のメタファーなの?といったことが結構気になった。被差別部落の問題とも違うんだよね。まぁある意味意識的にその要素を排除しているんだろうけど、どっちにせよ日本人の差別意識にまつろう事柄ではあるんだろう。まぁこうこねくりまわさなくても総角とざくろの恋模様を眺めるだけでも楽しいんだけどな。いや、なんか相手を異性として意識しているのはざくろのほうっぽくて、総角はあんま色恋の要素が意外に少ないかなと思った。戦いのとき、総角が歌いだすのがおかしいといえばおかしかったんだけど、あれ、彼の気持ちよくわかるわぁ。ホントあの時点で歌うことが一番最善だと総角が考えるのも無理ないもんな。理由は彼が説明した通りだし。

*1:取り替え子、つまりチェンジリングではないのだ。