Hidden Value なんか訳わかんなくなってきた。

 本書の目的は、フツーの社員から能力を引き出して、企業の業績にどう繋げるか?といったところだが、結構考えが飛んでしまう。本日、ついに逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)を読了し、これまた人間どう生きるべきか?なんてところまで思いが飛んでしまった。要するに、江戸末期から明治にかけて来日した外国人の目を通じて、日本が近代化によって喪ったものを特に描いている。そして、その失ったものは、きっと西洋にしたって中世から近代にかけて喪ったものと同じで、彼らもかつては持っていたものだろうというのが根っこにある。そして本書の舞台は一企業体内部のであり、そしてその企業ってのは合衆国なら対合衆国全土、グローバル企業であれば対世界での関係性が前提になっている。
 まず、問題にしなければならないのは、企業活動が基になっている場合、一個人が生活のために企業に属し経済活動をする上で、企業内部と外部で区切りがつけられているという点だ。もちろんこれは企業をヒトと見立ててもよい。企業というのは企業外部から搾取をすることによって生存が可能なのだ。これが中世だとそうはいかない。関係性のある要素は、全部がいわば内部なのである。企業は企業に必要なモノは取り入れ、必要でないモノは捨てるという構造になるが、中世だと内部と外部の境界が曖昧なうえ、自己を含む共同体の中で必要なモノも不必要なモノも処理しなくてはならない。すなわち、要らないモノは捨てるということができない社会だと言ってもよいのではないだろうか。いや、現実的に疎外ということはしていたようだが。まぁ近代は個がはっきりする段階、中世は境界があやふやという段階と極言してみよう。
 一挙に話は跳ぶのだが、だから本書で述べていることは企業内部の中世化なのではないかと思ったのである。企業が個人の能力を引き出せない状態ってのは、企業内部での社会的近代化、すなわち、経営層を一つの組織としてみた場合、経営層が内部、従業員が外部という構造を持っているということだ。必要なモノは従業員という「外部」から取り入れ、「内部」である経営層に必要の無いモノは従業員の側に捨てる。そしてその構造は企業とその外部との関係と一緒だ。企業外部を仮に「市場」と呼ぶとすると、企業が必要なモノは市場から取り入れ、企業にとって必要の無いモノは市場に捨てる。そしてそういうのが続くとどうなるか、企業には必要なモノが集まるかもしれないが、市場には価値の無いモノしか存在しなくなる。そうすると企業は必要なモノを市場から調達できなくて「窒息」することになる。そして企業内部でも必要なモノは経営層が取り入れ、必要の無いモノは従業員に捨てることになる。そうすると経営層は従業員から取り入れるべきものが無くなって閉塞してしまうことになる。これは実は金融資本が総取りしてしまって世界的不況に陥っている現在の状況となんら変わるところがない。
 いや、そうじゃないんだよと。経営層も従業員も必要なモノを一方的に片方から搾取するのではなく、お互いが必要なモノも融通しあい、不必要なモノもお互いが処理しあおうよと。いや、いっそのことできるだけ不必要なモノを作り出さないようにしながら、必要なモノだけを作り出すようにしようやということにもつながる。メンズ・ウェアハウスの例にあったように、自分だけの売り上げをあげるために人の分まで横取りしていたために、店舗全体の収益が落ちていたということにもなりかねない。いや、そうじゃなくって、お互いが助け合って、そして得られる成果は分け合おうよということに繋がっていく。そしt、それは企業と市場の関係でも大切なんじゃないかということだ。企業は市場から搾取だけするモノであっては、市場自体が壊れてしまう。限度がどのくらいかは見当もつかないが、企業と市場の垣根も無くすべきなんじゃないかというところにもつながっていく。市場から得た利益は企業内部で分配する。経営層だろうと従業員だろうと分配された利益ってのは、彼ら自身が市場では購買層なわけだからして、即ちそれは市場に利益を還元するということになる。いや、こゝで偉そうなことを述べなくとも、別に100年も前にフォードが言ってることだろ。
 で、難しいのは前回も述べたとおり、企業活動で提供される財ってのは、本当に人間の生存に必要なモノなのか?、いや生存なんてギリギリなことを言わないまでも、本当に無くてはならないモノなのか?と言われると、かなり整理が可能だったりしないか?。さすがに中世のモノのない時代に戻れと言われても当惑するだけだが、でも中世は現代の便利なモノがなくても人は生きていたし、楽しみがなかったわけでもなかろう?。いや、生きる最低限のモノだけありゃいゝってわけでもなくて、もちろん生を彩るモノは作られていくべき(生きる最低限のモノも併せて、それは文明・文化と呼ばれるんだろうが)だが、現代はあまりに必要の無いモノを押し売りしてそれでカネ儲けしているという部分が大きすぎやしないか?とも思うのである。今や近代化により、外部動力が必要ながら過剰生産力ってのはあるのだ。だからこそ扶養力が増しているのであり、全世界的に見て人口が増えるのもむべなるかなというわけだ。やっぱ沢山作れる者がいて、そいつの作り出すモノによってたくさんの人口が養えているのだ。世界中から一斉にすべての機械が失われてしまったら、人力・家畜利用による農作物生産以上の人口は飢え死ぬ。過剰生産力で生じるのは格差だ。持てるものが少量の財で大量の権力を手にするってことになる。もはや膨張しつづけている人口を今すぐ外部動力無しで得られる食料のみに減らせというのは無理だが、やはり世界的に身の程を知るという段階に移行していってもよいのではないかと思うのである。企業活動ってのを野放図にしてもいけないんじゃないのという時期にきているんじゃないかとも思うのである。
 人間は、企業活動で作った価値をそれほど必要としていないんじゃないかとも思うのである。沢山作って沢山提供し、それで沢山得られる富に目が眩んでいるのではないか?。本書の企業でも、例えば就業時間を限っているところがあった。結局それは従業員から奪っていた時間を返すってことだろ。経営層が法外な報酬をとっていた企業もあるが、従業員から奪っていた給料を返すってことだろ。権限も裁量も情報も、経営層が独占してきたものを従業員と共有することによって業績が上げられているワケだ。誰かが一方的に奪う、もしくは奪われるって関係じゃなくって、共有するというのがポイントだ。もしくは分け与えるというほうが適当か。別にバラバラな個人同士の関係でもいゝんだけど、誰も彼もが奪い合うということになれば、どうしても能力の高いものが富を占有するという結果にしかならない。が、誰も彼もが分け与えるということになれば、特定の誰かだけが豊かになるのではなく、富の偏在がより起きにくゝなる。なんか共産主義っぽくてアレな考えに見えるが、共産主義国家が破綻するのは、みんなが分け合うというルールの元、特定の層が奪うだけって構造になるからおかしくなるのである。また、誰も働かなくなると言われるが、働かないのは他人に分け与えることをしないということであり、それは即ち「奪う」という行為に他ならないからだ。まぁ何事にも塩梅ってのが大切だが、ソ連が崩壊したのはまさにその両方が起こったからだと思う。そして、情報を共有して、必要最低限といわないまでも、喰うに足るだけの生産をしていれば余った時間はのんびり過ごせばよいだけだ。企業の内部環境も、企業と外部環境との関係も、どっちにしろほどほどに「分け与える」のを主眼にやってけば、そう追いつめられて働かされるってことにもならないとは思うんだが。ま、怠け者がいないとも言わないけどね〜。でもね、西洋って、別に近代化以前から奪うってのを主眼にしてきたからなぁ。スペイン・ポルトガルの植民地帝国なんてその最たるもんだろ。それを下敷きに国際政治や経済活動がなされているんだから罪深いよね。
 とまぁ、なんか話は企業内部での労働環境ってところだけにはとどまらないんじゃないかってのは以前から考えてはいたことなんだけど、渡部京二の本で一層考えさせられたってところ。諸悪の根源は大量に貪るってことなんだけど、もちろん影響力の大きさからいうと特権階級の罪は深い。で、やっぱりそれ以外の一人一人にも言えることなんだよな。で、大局で見て特権階級が庶民から奪っているってことは間違いないんだけど、特権階級は特権階級同士で分け与えていたりして、彼らにしてみれば、これまた罪深いことに奪っているという自覚が無いんだよね。で、庶民は庶民どうしで奪い合いをしていたりして、戦うべき相手を間違っているという意味では、これまた罪深い。で、日本にせよ欧米にせよ、いや全世界的に特権階級ってのはそういう構造を上手く利用して自分のところに矛先が向かないよう、下のもの同士でいがみあわせているわけなんだが、やっぱ教育ってのは重要だよね。で、まぁそういう一番の冴えたやり方ってのは、そういう構造を無くすために努力するのではなく、手っ取り早いのが特権階級の中に入っちまうことだったりする。で、それはかなり難しいから手短に済ますとすれば、本書のような優良企業に入ることだったりする。構造を変えるなんて一個人では無理だし、いがみあっているもの同士で仲裁をはかり方向性をそろえるなんて大抵は徒労に終わる。大抵は環境要因が大きいんだけど、自前で才覚や人格を高め、できるかぎり足を引っ張りあうような環境から遠ざかり、理解しあえる仲間のサークルに入っておく。よっぽど影響力を行使できる人で無い限り、個人の範囲でやれるのはそれが精一杯。そのための教育だよ。もちろん環境要因*1が大きいけど、最終的には自分で自分を教育できるかに尽きる。メンズ・ウェアハウスやNUMMIが研修を重視するってのは、やはりマイノリティがレヴェルアップするのに教育が一番効果的ってのがあるんだろうなと。
 まぁ本書の企業がわけあうことで成果をあげているんだから、敷衍はできそうなもんだけどね。こういう会社だと儲けたら儲けたで全員で分け合うだろうし、厳しい時にはみんなが我慢だろ。どっかの国のどっかの企業のように、苦しいときは従業員の給料を減らすだけでなく雇用をわざわざ不安定化し、役員報酬は倍にするって、なにやってんだろとかおもうわな。

*1:それすなわち好条件ともいわないが、名門・金持ちのもとに生まれるってのは究極のチートだろ