クイーンズブレイド 玉座を継ぐ者 第10話 本懐! 闘う理由

 仲間を斬り捨てたトモエと、仲間に支援されるレイナとでは初めっから勝負にならないというか。
 トモエが守ろうとして守れなかった仲間が彼女の力になるというよりは、重荷になるってアルドラ(というかアルドラに取り付いている何か)の視点も面白かった。守るべきものがあるものほど強いといわれたりするが、どうなんかな?ってトコだろう。混乱するのは、日ノ本にはトモエが守るべき人がもう残っていないという可能性があるのと、レイナに守るべきものが無いってわけでもないってことなんだが、基本トモエは初志貫徹だし、レイナは我欲が無いリーダーって立ち位置は変わってない。守るべきものがあるからこそ、自分の側だけ助かればよくって、他人を不幸に陥れても平気っていうか、自分の許されざる行動を正当化するってのはどうもマズいんでねぇの?ってのは最近とみに目にする*1言説のような気がする。
 トモエ自体は日ノ本だけのことを考えており、彼女自身ストイックであるにせよ、大陸を含む世界全体を眺めるという視点が無い。対してレイナは、自分自身の目的が無いにも拘らず、関わってきた人たちとの連携を重視している。レイナの目的は強くなることであって、クイーンズブレイドに勝つというのは、手段というか単なる通過地点のようである。で、レイナが強くなった先に何が待っているのかってのが、ここでは語られない。女王になって権力を手に入れても、レイナならそれを利用して何かをしようとはしないんじゃないか?ってのが予測される。これがトモエなら、女王になったとして、その権力というか力を、まずは日ノ本に使うんだろうなというのは容易に想像できる。そしてトモエは困難に陥ったときには親しいものすら切り捨てるんだから、それ以外の人間ならなおさらだろうなということも想像できてしまう。シズカを倒すのではなく殺してしまって、共生の道を最後まで貫き通せなかった時点で、トモエは強くなることが出来なかったというべきか。“強さ”って何?ってのを深く考えさせられる。
 まぁ結局組織のためなら個人の犠牲は許されるべきって日本の(特に大きな組織の)風潮を否定するってメッセージなんだろう。一昔前なら、父親が家族の幸せのために、仕事で悪事に手を染める(それは社会人ならしかたないだろって風潮)ってドラマは、割と肯定的に受け止められれがち*2だった。それが回りまわって自分(やその家族)に返ってくるっていうか、社会を荒廃させたって反省は当然なされるべきだとは思う。

*1:実はわかり難いような構造になっているのだが。

*2:たとえ自分の行動で他に犠牲が出ても、成長期の日本だったら、全体が豊かになっているのでどこかで救われているに違いないという幻想があったんだと思う。