アキカン! 第6話まで見終わって。

 結構初期の段階からカケルの漢っぷりにオヤ?と思わされてきたのだが、ちょっと整理。
 第6話では駆けつけてきたなじみに一席ブつわけなんだが、キーワードは仲間。まぁ浪花節というかお涙頂戴モノの定番の理屈付けの一つなのだが、これは使用上の用法を誤ると途端に上滑りする諸刃の剣だ。で、カケルの言う仲間ってのが、胡散臭くないわけでもないのだが、ちょっと良く出来ている。
 なじみが好意を寄せていることをカケルは知っているわけで、なじみのメロンが好きか?という問いにカケルはガチで受け止める。その理由がメロンもなじみも仲間であるというもの。これが惚れたはれたの恋愛ドラマなら胡散臭いことこの上ないのだが、そこはそれ、萌えアニメではあっても今までの描写の蓄積があってのものだ。すなわち、カケルは下ネタを絶えず口にしてはいても、女キャラとは一定の距離を取りつづけているってのがうまく効いてる。そこらへんW.A.の冬弥の下心のあり方と比較するとわかりやすいと思う。アレは下品な言葉こそ吐かないが、冬弥の心中はいろんな女の子にモテたいって欲望でいっぱい。ヘンな話、カケルは君子なのだ。
 これがメロドラマなら普通修羅場である。なじみにとってはカケルにメロンを否定して自分を全面的に受け入れて欲しいところだ。で、カケルはメロンを否定しないが、なじみが一番言って欲しい言葉も与えている。そこらへん、彼が他者の欲望をうまく割り振りできる、いわばリーダーとしての資質を持っていることを意味する。誰のものでもないが、みんなのものでもある。自分を求めてくる人たちに一番欲しいものを与えることによって、その一番欲しいものを我慢させる。与えないわけでもなく与えるわけでもない、この辺の、いわば哲学的命題というか宗教的課題をうまく取り入れているのがよく出来ている部分だと思うのだ。だから仲間という台詞がそれほど浮いて聞こえない。依存でもなく放置でもない。このバランス感覚がなんともな。
 あと、東風も不思議な立ち位置だよな。口ではなじみのためと言いながら、実際にはカケルの手助けをする。バナナでバイクが滑るのも、単に王道なネタを使用したギャグではなくって、ちゃんと東風の物語的役割を視聴者に提示するきっかけとなっていているようで、よく考えられていると思う。
 ぶど子がこの前半戦ではうまく使い切れなかったような気がするのだが、そこらへんは後半戦あたりで消化されるのかな?。もちろん今までで何の役にも立っていないってこともないのではありますが。
 しかし、これって原作自体の出来がいいのかね?。結構初めからネタとして認識されているから、愛されるバカアニメ扱いされているってネットでは評判だけど、キャラの配置とか絶妙によく考えられていると思うんだよね。AAC大久保藍子が朗読している部分を聞くと、ホント馬鹿げているとしか思えないんだけどな…。