アタックNo.1 第66話 真木村京子の正体

 運動会の競技の合間に覚える英単語が「animate」。しかも観客にインド人がいるし。
 うーん、難しいな。結局最後の真木村入部の流れから言うと、やっぱ番組前半の罵り合いは見栄の張り合いだったのだろう。てっきり高校時代の有意義な過ごし方云々を本気で提示しているのかと思ったのだが。
 自分なんかはスポーツは、自分の存在を誇示するためにやるのであれば、なくなってしまえばいいとぐらいに考えているわけで、その辺節度を持って運動に取り組むべきという真木村家の教えに近い。勉強漬けの高校生活はつまらないとも思わないし、かといって勉強もするが、クラブ活動をやらないと有意義で無いというのもどうかなと思う。で、真木村の描写にもあったとおり、機械的にものを覚えるだけの勉強もつまんないよなとは思う。しかし、そうは言っても、自分が高校時代のころを振り返ってみると、部活に魅力を感じて取り組んでもいたわけで、あぁ、あの時代は自分を取り巻く環境に、学校的価値観以外の魅力的な過ごし方がいっぱいあったのに、つくづく狭い世界でアレがいいコレがいいと思い上がっていたよなとは思う。この高校生達の言動を客観視できるのも、自分が大人になったからなんだろうなというのを差し引いて考えなければならないだろう。
 しかし、テニス好き少女の真木村がなんでバレー部に?というのも、わからない人が多いのではなかろうか?。真木村自身、スポーツと距離をとっていたので当然テニス部からの勧誘などなく、かといって妙につっかかってくるこずえに、自分の中のやるせない気持ちをわかってくれるかもという期待もあってのことだろうと思う。そりゃ石松を止めたりだの、成績面でもつっかかってきたりだとのと、いかにも構ってくれそうと判断してのことだろうが。それにしても母親の居ぬ間にとはいえ、自分からってのがどう考えても唐突だろ。そこまでして家庭の事情に抑圧される一部の高校生を描きたかったのかね?。確かにいい大学に入るために狂奔する家族って構造はあったのだと思う。今でこそ文化人気取りだが、こばやしよしのりの「東大一直線」も1976年と、ほぼ10年ほど離れてはいるが、むしろ常態化して戯画化しても笑って済ませられるほどに熟成していたのがその頃と考えられなくも無い。
 でもまぁ別にこのメッセージをバカにするわけでもないし、あんまり批判するつもりも無い。放映当時は自分は生まれているか生まれていないかぐらいのときで、あの時代のことを覚えているわけでもないが、ああいう雰囲気だったのだろう。で、現在興味娯楽が多様化し、アクセスも容易…というか、遮断することができない…も一つ言えば、それをネタに企業が子供を喰いものにするという構造すらある。ゆとり教育で、無知であることにに抵抗を感じない子供を作り出し、しかもそういった教育を受けた低位層ははしにも棒にもかゝらない、常識が通用しない大人であったりするわけで、ある意味遊びたくてもそういう環境が無かった、大人の側にも子供をある程度コントロールをして、有害な環境から遮断をするための働きかけが一定効果があった時代のほうが幸せだったのかもしれない。
 しかしどうだろう?。勉強に専念するあまり血を吐くほど衰弱する兄の姿を描くほど勉強を悪側に描く必要も無いと思うんだけどな。スポーツなんて3S政策の一環をなす娯楽に過ぎないわけで、必要以上に持ち上げなくてもいいと思うけどな。もちろん体力づくりの面は否定しないが、いや、だから体力づくりのためにスポーツをやるなんてのもヘンな話だしな。
 まぁ話が支離滅裂になって、自分でもまとまりがつかなくなっているが、結局のところ日本人に対して、個人の生活と適度な距離感を持ったスポーツとの付き合い方がモデルとして存在していないのだろう。のめりこめば、過度に勝ち負けにこだわって本質を見失い、人を蹴落としてまでものしあがるという醜悪さに繋がる可能性は大だ。かといって淡白にスポーツとつきあうにしても、自然消滅するとか、別にやんなくてもいいんじゃね?というレヴェルにまで落ち込むこともあるだろう。本当に楽しんでスポーツと生涯付き合うためには、たぶん時間とそのスポーツに関わる下地が必要なんだけど、このワープアはびこる日本ではとてもそんな余裕のある人間はいないんじゃないかな?。
 海外のアマチュアスポーツの現状なんて全然知らないんだけど、先進国あたりはあんまりしゃかりきなイメージを抱かない。後進国は就職自体が無いし、あっても低賃金なんで、むしろ一攫千金の手段として、全財産を賭けるバクチ感覚なんだろうなという気がしている。で、日本はどっちかというと、後進国モデルのようなイメージを受けるのだ。もちろん何の裏づけも無い妄想。後進国と違うのは、それらの国より一攫千金を求める度合いが少ないぐらいか。バレーなどの団体スポーツが企業の宣伝にもなり、社員団結のシンボルとして飼われていたというのが、まだ納得がいくというか。現在ではプロ意識だのなんだのでそういう要素は少ないのだろうが、技術のあるスポーツ選手が若いうちには好きなことに打ち込み、歳をとったらその企業の本業で働くってのは幸せな環境だよ。プロ選手なんてハイリスクハイリターンなんてほとんどおらず、大体がハイリスクローリターンの人生だし、そのスポーツに生涯関わりたかったら、体育教師ぐらいしか進路が無い。それ以外の進路はよっぽどの財産がなければ、生涯食っていけるの?というレヴェル。で、子供のうちから生涯スポーツを目指して社会を構築していくの?。夢物語でしかないと思うんだがね。それでもやりたいんだったら、何をさておいても自由な時間が要るでしょ。