アタックNo.1 第64話 燃えるライバル

 韓国チームがこずえに敬意を表して、必要の無いタイムを取ったというアナウンサーの説明は蛇足のように感じたが。
 怪我の問題は、結構あっさりと解決していたようである。一応一球だけの出場は、極力体を壊さない配慮がなされたものであるという描写であった。あの出場は、相手の理解がある範疇を超えていたら成り立たないものであった。怪我を押して出場する相手に本気になるわけにもいかないと判断されたら、こずえの意志がどうであろうと、試合のぶち壊しになる。かといってこずえの意志どおり本気で戦って、万が一こずえを再起不能にしてしまったら大人げないと非難される。相手が怪我をしているから手抜きも候補に挙げられるし、かといってそれは試合に対して真摯な態度か?と言われれば、非常に困る。こずえが身の程をわきまえず、迷惑を顧みず出場しているのなら、ただ周囲を振り回している困ったチャンになるわけで、一歩間違えればおかしな流れになるわけだ。が、いくらご都合主義と言えども、結果的に美しく描写されていた。
 山本も調伏。前回も思わせぶりな描写があったわけで、そこらへん彼女の心境に時間的推移とともに変化がつけられていたわけで、これは結構自然な流れになっていた。桧?檜?垣も口では理性的なことを言っていながら、感情の表出を抑えることができないというのもいい流れ。
 これまた前回も述べたことだが、これらは全てが自発的に湧き起こるから美しいのである。で、日本人は全体のために個を犠牲にするのをありがたがるメンタリティーが強い。強いからこそ、上位のものが強制力で下位のものに自己犠牲を払わせたがる。特攻の例もそうだが、現代のサーヴィス残業もそうである。会社という全体のために、本来払われるべき報酬を自発的に受け取らないという自己犠牲を特権階級は強いるわけだ。本当に自発的なわけは無い。サビ残を断れば馘を伐られるから嫌々我慢しているだけである。なまじっか高度経済成長期にサビ残を厭わずにいたために、バブルという段階を飛び越えて、昔の経緯の恩恵に与らなかった若い層までワープア状態が常態化させられた。高度経済成長期ですら過酷な労働に耐えかねて自殺や離職者が一定数いたのだが、まだその時期はサビ残を乗り越えた末に会社の成長があって、やがては高給が手に出来たり出世ができて報われるという未来があった。だが、今の若者にはその展望が一つも無い。この作品の放映後にまさかジャパンアズナンバーワンの時代が来るとは誰も本気で信じていなかったと思うのだが、それでも成長して豊かになるという展望があった。我慢の末に楽があるという仮説は、この作品の発表から20年後ぐらいまでは確かに真実ではあったのだ。
 ただ、ワープアが確定し、自民党経団連などが、戦時中の軍隊が特攻隊に強いたことを、今度は日本全体の若者に本気で当てはめようとしたことがわかった現在、この作品のそういう部分のメッセージはもう素直に受け取れない時代になってしまったことを痛感する。全体のために個人が犠牲になることは、いくら当事者の自発的行為だとしても許されないことだと規定せねばなるまい。個人が犠牲になるそのための全体が、今や本当に全体ではなく、特定の利権者のために奉仕させるための隠れ蓑にさせられるわけだからして。いつでも都合よくこういうメッセージが利用されてしまうわけで、そういう状態になる前に自制しなければならない。そもそも個人の犠牲を前提とするような全体をまず否定しなきゃなんないだろう。
 ホントいやな時代になったよな。情けは人のためならずという諺は、人にする親切はまわりまわって自分に返ってくるというのが本義だが、まわりまわって特権階級にだけ利益が返ってくるように自民党経団連などの特権階級が操作してしまうようになるだろう。なんでやつらが道徳教育に御執心なのかといえば、バカな信者がカルト宗教の教祖に何の疑問も持たず財産を差し出すように、人々に私財を特権階級に差し出すのを厭わないよう洗脳するためだからな。小泉・安倍、彼らの教育改革は端的に言えば愚民が特権階級による搾取構造を気づかないようにさせるための洗脳だからな。
 というわけで、インターハイから国際親善試合のイベントが終了。また日常の学校生活の描写に戻ります。