行政サーヴィスに対する住民の大きな勘違いについて

 たいした事を書くわけでもないんだけど、今週のいきいきホットラインコメント強調週間のまとめとして。
 結局住民というより、日本国民の依存体質によるものなんだろうなという気がする。そもそも住民による自治組織といった性質を持つ、惣村というものの出現が室町時代になるまで現れなかったし、しかもそれは戦国動乱以降の徳川体制になると途端に封建領主の支配体制の下部組織の性質が強くなっていってしまったりする。それはヨーロッパにおける都市の自治や、やはり封建体制とはいいながら、城壁で囲まれた自治の色の濃い邑を単位とする中国のありかたとも違う。
 小競り合いはあったのだが、そこらへん都市全体が進入してきた多民族に皆殺しにあってきた大陸国家と一線を画すのだと思う。ただ厳密に日本と他国が違うと言いたいわけでもない。力なき庶民は「どうせ努力しても叩きのめされるだけだ」という諦観をもった層は、歴史的に見てどの国にも存在したであろう。そうなると、歯向かう事は無理だが、権力層からいかに多くのものを引き出すかというパラダイムになったところで不思議はない。そうなると統治側は滅びるほどの外敵が存在しない以上、住民をパートナーとして巻き込んでの挙国一致体制を作る必要も感じないであろうし、反撃手段を取り上げて、ひたすら圧政を敷くことが合理的な判断になってもおかしくない。
 ただ、そうはいっても惣村形式が伝播して、それなりの発展を遂げて、それが江戸時代に至って「外交・経済・統治」を取り除いた部分で自治が行われていたと考えるのは無理がないだろう。で、その解体が始まったのが明治維新ではないかと思うのだ。元寇以来初めて外国の脅威が日本に訪れ、国民を富国強兵に巻き込むために明治政府が行ったのが中央集権体制の確立で、そこでは生活面以外の自治権を一切取り上げるという方向になる。域内経済の集合体でやっていた江戸時代までの生産体制をがらっと変える、また兵隊養成のために、生活単位としての地方が解体されるわけだ。政府にとって必要なのは、政府にとって都合のよい命令伝達機構であって、地方自治はじゃまでしかない。で、必要悪ながらもそれなりの成果を挙げたのが日露戦争までであったと思う。結果論で言えば。あとは形成された効率的な命令伝達機構を利用した、特権階級による日本の破壊の連続であったかと。
 大正デモクラシーから終戦までも、いわば「大家族」の解体過程であって、それがまだ形だけでもまがりなりに残っていたのが高度経済成長期だったと思う。ある程度日本の復興のメドがつき、これからどのような方向性に進むか?。地方、特に農村や大家族のほぼ解体期と経済のバランスの取れた時点で、将来の日本像をどう描いて国家を運営していくかという時期に現れたのが、田中角栄なんじゃないかと思っている。もちろん外交ではアメリカによる日本占領の継続の流れの上での米国従属か、国際協調を軸とする外交関係を他国と築いていくかの選択肢もあったと思う。たぶん彼が選んだのが日本の更なる工業化と、アメリカ軽視ではないが、多国間協調、その手始めとしての中国との和解があったのではないかと思う。
 で、都市部はともかく農村部では農作業の機械化の時期にあたっており、共同作業による民衆同士の協調のさらなる減退期で、それでも冠婚葬祭を紐帯とする住民同士のつながりがまだ残っていた時代で、田中角栄型政治がもたらしたことは、陳情を主とする利益誘導型政治であった。これが住民の依存体質を強める結果となったのではないか?、そしてその流れで日本がおかしくなっている最中ではないかというのが、住民自治を背景に据えながらも結局は住民サーヴィスという視点による、役所…というよりは公務員叩きをテーマとする今週の番組に対する考察である。
 住民の生活向上と言った時に、そこでの“生活”の主体はあくまで“住民”であり、そこを「役所が仕事を真面目にしないから自分たちの生活に潤いがないんだ」という自己撞着的な議論を前提として批判を許さないからおかしな話になっているだけなんだと思う。行政サーヴィスはあくまで裏方であり、むしろ表に出てはいけない性質のものなんでないかと思う。今でこそ情報機器の発達によって事務処理の効率化が行われているが、文句の典型例である、「役場の処理が遅い」というのも、割り当てている人間の数が少ないからこそ少ない予算でやりくりできるわけであって、そこを不満としてサーヴィス向上を図ればコストアップになるのは明らかである。そんで金がなくて地方債のお世話ってのは違うんでないかと。はっきり言って役場のする仕事がなくて暇であるほうが、より理想的な社会であるわけだ。そんときに無駄な公務員をクビにすればいいというだけの話だ。犯罪がなくなって警察が要らなくなるほうがよっぽどいい社会でしょ?。
 より税負担をしないで、借金をすることによってサーヴィス向上がずっと図られてきており、住民としてはサーヴィス向上とコストの関係が全く見えないつんぼ桟敷に置かれて、逆にコストを負担しなくてもサーヴィスを享受できてしまうという勘違いをさせられ続けてきたというわけだ。税金の使用用途を勝手に決め、黙って借金をして住民サーヴィス向上を図って得票してきた政治家の罪は重い。あくまで住民は実行犯であり、権力を好きに使ってそれを促した政治家は使唆犯である。
 実は地方というよりは国政の場でそれがより酷い。永田町の世界や財界のトップの世界は庶民からもっとも遠く、また奴らが秘密主義をとっているだけに、なおさら国民の目が最も届かない世界になっているわけだ。だからどうせわからないだろうと特権階級にだけ都合のよい法律が決められ、特権階級だけが潤う予算配分にするなど、好き勝手放題なわけだ。コストも負担せず、やることもやらないで末端の公務員を叩くのは実は逆である。むしろ公務員というよりは、そういう自分勝手な財界人や政治屋を叩くべきなんだと切に思う。