とりあえず

 日本語が入力できる環境に到達しても漢字までは無理でした。とはいっても記録をためらって、書く内容を忘れてしまうのも本末転倒で。
 やっぱり中国は日本と比べて時差が一時間あるので、はてなの更新時間もそれだけずれてます。飯も食わずに更新をしたのですが、何やってんだろうなわしはという感じですよ。






 帰る日程との兼ね合いで、どの地でゆっくりするのか、本当はこの程陽で2〜3泊する予定を早めに切り上げて次を急ぐことにした。夕方の風雨橋では暗すぎて思うように撮影ができなかったので、朝の6時ごろに起きだして、土産物売りが来る前に撮影をしこたまする。さすがにゲームの風景に土産物売りがいないほうがいい場面もあるだろうからな。あとは旅館に戻ってゆっくり休む。
 10時半ごろに近くの広場にて民族舞踊ショーがあるとのことで行ってみた。村の散策で、一時間ほど前にもその広場に行ってみたのだが、地元の人以外は誰もいなくて本当にやるのか半信半疑であったが、準備をやっているので待つことにした。舞台があって、他の観光客がそこに上がっていたので何やってんだかと思っていたが、いざ始まってみると人数が少ないせいなのか、もともとそうなのかわからないが、舞台の左に演者がいて、右に長いすが用意されていて観客はそこに座って鑑賞するというものだった。
 広西壮族自治区は、どうも歌で有名ならしく、旅行前にそういう情報を聞いていた私はどうしても民族舞踊というものを間近に見たかった。しかし常設のショーだと人気の無いテーマパークに見られがちなダれた雰囲気があるのかもと思っていた私は、そもそも地元の生活に密着しない民俗芸能に果たして意味があるのかということもあいまって、過度な期待はしないでおこうと思っていたのだ。
 いざ始まってみると、他の観客のノリのよさも手伝ってか、結構盛り上がったように思う。ショー向けにアレンジされていただろうし、中国は文化大革命のころから革命京劇の伝統があるので、はたして披露された踊りがそもそも昔の姿そのものとも思えないが、年齢層に幅のある地元の人たちのちょっとはにかみののこる演技はイタさを感じるものではなかった。
 歌もハーモニーを重視するものや、(ポリフォニーという区分らしい。)楽器も竹を主材料とする笙のようなものの大小で演奏されており、ものめずらしさも感じた。途中酒の歌になり、勧められて飲んだら、構成上もう一杯勧められてちょっとしたサプライズだった(これも地球の歩き方で、酒を勧められたらお金を盆の上に乗せるというのも予習済み)。
 あとは開閉する竹を避けながら進んでいくゲームに参加した。民族衣装を着た娘さんに手をとってもらい、うれしはずかしだったが最後つまづいた。いいおっさんが何やってんだかという感じだが、観光客みんながやってたのであまり恥ずかしさは無かった。
 あとは数珠繋ぎになってちょっとしたステップを踏むだけのダンスの輪の中に入ったりと、たしかにプロデュースとしては問題外なんだろうが、この素朴さで心温まる思いがした。
 名残は惜しいのだが、先を急ぐために桂林に帰る準備をする。検票所の近くでうろうろしているとすぐに乗り合いタクシーを捕まえることができ、三江にGO。着いたところで、桂林行きのバスの待ち合わせに1時間半ほどつぶす。バスはまた龍勝までの工事中の道を低速で移動。桂林には18時20分ごろに着く。
 それからまた急いで陽朔に行くバスに乗る。目的は今日中に印象・劉三姐を鑑賞すること。間に合わないと陽朔の滞在を二日に伸ばすことになるのでぜひとも急ぎたかった。陽朔行きの直行バスの運ちゃんも急いでくれたし、劇場行きの観光タクシーの運ちゃんも気を利かせてかなり急いでくれたおかげで、開始自体には無理だったが、ほとんど鑑賞できた。
 内容自体は他愛も無いもので、一言で言えば自然を舞台にしたマスゲームのようなものと思ってもらったらいいだろうか。組体操ほど静かでもないがカレイドスターやサーカスよりは派手ではない。観客の目をどのようにして驚かすかに目的があるっぽいのであんまり野暮なことは言わないほうがいいだろう。
 山水画の風景をそのまゝ使って、多数の人間や機材をふんだんに使っているってのはちょっとアレなものだ。経済の三要素といわれる、土地・労働・資本の三つがこれだけあからさまに揃って見せられるってのも、共産中国の変貌を目の当たりにするようではある。
 ただ、日本がいち早く自分の文化を捨て去ってなるべく西洋に近づこうとしたのに対し、この企画をプロデュースした監督の思いというのを考えると、結構考えさせられるものがある。
 日本で民謡や消化が廃れ、とうぜん民俗芸能もほとんどなくなり、歌舞伎なんかももう芸能としてというよりどうやら皇室あたりとつながりたい権力層のステータスとしてしか残っていない(というかあんまり実情を知らないで妄想を書くものアレだが)のを見ると、舞台装置なり、演出なり欧米の技術などをふんだんに使いながらも、歌はなるべく民族色の強いもの*1であったり、なるべく民族衣装も本来の形を残すようデザインされている様子であるとか、背景などに使われるエキストラの演じる風景の素朴さなんかは、どっかの国がどこかに置き忘れて思い出そうともしないモノを必死で残すよう努力しているようにも感じる。
 もちろん日本でもそうだが、昔がすべてよかったわけでもないし、戻ろうとしても戻れない部分もあって、ではそれをどうパフォーマンスに仕立て上げるか、何を残して何を切るか、しかもそれを金にするにはどうしたらよいかなど関係者の苦労を考えるとスケールの違いをどうしても考えざるを得ない。もちろんすべてほめられるというものでもないし、努力がすべて正しいわけでもないと思う。
 ただ、日本がバラエティーを除き、決して芸能関係者が努力してないともいえないんだけど、あまりにも消費主義に走りすぎていて、娯楽としても画一化しすぎてしまっているのはどうも萎える。
 多分この劉三姐に匹敵するのは日本では、国産というにはあまりにも語弊がありすぎるディズニーランドがそうだろう。ディズニーランドは着ぐるみに人気があるらしいが、多分この劉三姐のステージに出られるってのは中国の少年少女の憧れだったりするんだろうと思う。これは明確な演技としての主役はおらず、ディズニーランドの着ぐるみがそうであるように、全員がエキストラといってもいい。中盤に月の上で踊る*2少女もいるが、これも名無し。日本がアイドルのネームヴァリューで河童号としているのに対して、決して演技のレベルが格段に向上するとはいえないとは言え、層の厚さを補うものであると思う。そういや日本の大衆芸能って絶滅しているっぽいよな。
 まぁ実際にこれを日本人向けにアレンジして、日本人に受けるとも思わないなぁ。サーカスも廃れてしまったし、たぶんカレイドスターもそういう大衆娯楽に対する視聴者への提案だったりするんだろうが、舞台がアメリカってだけで、もう監督が「ああいうものが受けてほしいとは思うが、日本人にはそもそも理解が無理だろう」という諦観が見られてしまう。
 アニメも今は結構製作側が表現と商売のバランスに苦闘しながらもなんとかがんばっているようだが、これも過度な商業主義に陥るとすぐに今のヴァラエティのように陳腐化するだろうと思う。そういや日本のアニメも見なくなってほぼ一週間になりますなぁ。
 なんてことを書き散らしながらも、結局見て終え、歩いて宿泊所を探す。とにかく劇場の駐車場がすごくてバスの海ですよ。これが閉幕と同時に客がかなりスムースに退場して、バスがこれまた中国とは思えないほど整然と出て行くのだ。遅れて入った私にも親切に服務員が席に案内してくれるほど気配りがされていて、トータルでの集客が考えられていてびっくりだ。桂林でもそうだが、たいていの旅行社でツァーが組まれているようで、華南あたりから金を集める工夫がされていてびっくりだ。歩いている私の前でも家族連れ(夫婦とその母と思われる老人一人、子供一人の構成)がいて、安いC席でもRMB188と決して安くは無いのだが、この日のために楽しみにしていた様子が伺えて胸に来るものがあった。
 そうして地球の歩き方でも安宿として有名な陽朔西街国際青年旅館に到着。ここでもインターネットにアクセスはできたが、ひらがなだけってのも泣けました。

 できればノートパソコンでもあって書き溜めしとけばいいんだろうが、どうもね。たかがテキストエディタとしてしかつかわないのにバッテリーの持ちが悪く嵩張り、それこそ重たくて持ち運びに不便なノーパソを引き摺るなんてもったいない。盗まれてもショックがでかいしなぁ。

*1:といってもどこかの国のように天皇を中心とする神の国あたりから連想される全体主義的なものではなく、あくまで地方の一少数民族を例に挙げた郷愁を誘うもの

*2:たぶんこれも雑技を意識していると思う