ながされて藍蘭島 第15話「直したくって、梅梅」

 封印を破るなよ。
 栽培植物と農耕の起源 (岩波新書 青版 G-103)を読了。栽培植物は気候に依存し、改良の末周囲に分布するらしい。そしてその植物によって文化が形作られると。EDでは小麦畑がありましたね。しかし小麦は本来水が少ないところに育つものらしい。水があるなら、コメとムギだとコメのほうが美味くて、小麦は栽培されなくなるもんらしい。で、米を栽培する場合、農作業の大半は雑草引きということだ。コムギは、コメとの選択の結果、気温が低く、水の少ないところでしか栽培されなくなるものらしいので、農作業の大半は水遣りになるということだ。うーん、どうもEDの小麦畑はウソくさい。というか本当に小麦畑なんだろうか?。穂をよく見ると稔りが充分でない稲のようにも見えるが。整然と並んでいないので、陸稲なんだろうかね?。
 うーん、気がついてみればあんまり行人の物語って感じがしないなぁ。今までが誰かの当番回だったり、何かのイベントだったりしたわけで、どうにも村生活(村落共同体)ってのが作品全体のテーマになっているような気がする。今回の梅梅の話にしたってヨソ者の共同体入りってトコだろうし。
 しかしよく考えてみると、転校生が学校を案内してもらうとか、新入生が部活動に勧誘されるってこととかも結局はそういう流れなんかね?。戦中の五人組制度なんてのもそうだし、江戸時代の長屋生活での助け合いってのも結局は擬似村落共同体ってだけで、ながらく都市生活ってモノを日本人は理解していなかったんでねぇの?と思い始めてきた。
 自分が小学生のときから既に都市生活者では「隣は何をする人ぞ」という状態がちらほら見られていたと思うんだが、ただその隣人の生活に無関心であることを非難するような態度であったと思う。時代もここに至ってわかってきたというか、むしろ隣人同士干渉しないってのが都市生活者の流儀であって、ようやく日本人が都市生活の基礎を理解する端緒についたってとこなんでしょう。まぁよくよく考えてみれば少ない面積に人がひしめき合って暮らすわけなんで、いちいち他人の一挙一動につき合ってもいられないし、人に迷惑をかけないよう極めて不安定要素を排除するような方向に動かざるを得ないんだと思う。自分と他人との境界をはっきりさせ、最低限のことでは協力するが、もともと共同生活をしていないがために干渉しあうのは極力最低限のことにとどめる必要がある。
 もちろんそのルール作りはお互いが納得するまで突き詰める必要がある。納得できないことはお互いが遠慮してやらないというのが正道だ。強行採決なんてとんでもない。それができるのはそこまでやる側の人間が共同体に最大の利益をもたらすから、周囲の人間がその成果を受け取るために我慢するのであって、無理こ矢理こしてまで決めた側がそのルールを自分の利益のためだけに使うのであれば容赦なく共同体からハジきとばされてきたと思う。たぶんヨーロッパあたりは民族が入れ替わり立ち代りしてきた歴史があるために、数え切れないほどの試行錯誤が行われて都市生活の流儀ってモノが洗練されたのだと思う。どうも19世紀あたりからユダヤ金融資本のためにそれも崩れてきているようではあるが。ただ、西欧概念のプライベートなり個人主義ってのは協力できるところは最低限の範囲や個人の納得の範囲でするが、協力できないことはそもそもやらないってのが根底としてあると思う。そうでないと複雑に絡み合う問題をそもそも物理的に整理も解決もできないんじゃねぇの?。
 たぶん日本の村落共同体ってのはそういうのを長らく経験もしてこなかったし、理解をしようともしてこなかったんだと思う。田植えは村総出の共同作業であり、収穫や祭りもそう。村の中では個人なんてモノもほとんどなかっただろうし、なくても問題なかったのだと思う。そもそも他人と分断されている状況に晒されてこなかったために、選択肢があることすら気付かない。だから都市生活も共同体生活の延長として考える。しかし働く場所が違えば父親どうしの交流もなく、共同の井戸がなければ井戸端会議すら行われずおのれの趣味の範囲でしかないサークルでしか母親同士の交流もない。子供の教育を考えて公立私立の選択、いや今や子供のキャリアパスですら選択ということになったら、子供達での交流、もしくは同じ学校だからという名目すらないので子供を共通項とする各世帯の交流すらない。
 よくよく考えたら自分のときですら餓鬼大将を中心とした子供集団なんて既になかったし、それでも同じ学校のクラスメートで草野球なんてモノをやったもんだが、今や同じ地域に住んでいても保育園・幼稚園の段階から分断されてしまっている。もはや同じ学校での気があった極々少数の知り合いでの交流しかないんでねぇの?。らき☆すたの4人組ぐらいの小さな集団の散らばりしかないんだよ。既に。
 現在の日本人の悲劇は、結局もはや既になくなっている共同体だの共通理解なんてモノをいまだにあると思い込んでいるということなんだろう。共同体の成員であれば当然共同体から受け取るものも与えるものもあるはずなんだけど、モノが豊富になってきだしたあたりから自民党が金にあかせて「公務員=共同体への義務、住民=共同体への権利」という区分けをし、住民の権利意識だけを肥大化させたところが問題となっているんだろう。役場あたりへの対応への不満だの、教員や医者への無理難題や訴訟沙汰なんてものはその最たるもの。既になくなってしまっている共同体から利益だけを受け取り、かといって自分があると信じ込んでいる共同体を成立させるために意識していないといけないことからはしっかりと目を背けているってのが病気なんじゃないかと思う。いや、そうはいっても、そういう「困ったチャン」を相手にすることでわりと住民自身が自省する機会、「困ったチャン」を反面教師として都市生活の必須事項を悟ってきている人も多くなってきているとは思うんだが。
 この作品の面白いところは、行人が遭難からこの島の住人に助けられて、かなり早めに村の共同生活に慣れてしまっていることだ。たぶん行人は都市生活者だと思うんだが、彼自身のこだわりもありはするものの、わりとそういうプライベートな部分は早いうちから捨て去って、村の生活に早く慣れようとしていたってのがね。まぁウソくさいっていやぁウソくさいんだけど、行人が村の生活に戸惑って、衝突を繰り返しながらも慣れていくってスタイルをこの作品がとっていたら、これだけ軽やかなトーンにはなっていないわけで、早いうちからドタバタ劇にするための構成だとは思う。
 そして共同生活といっても、やはり基本は人間と人間の一対一のコミュニケーションなわけで、行人が流れ着く前には島でたった一人の一人暮らしをしていたすずとの共同生活から物語が始まるってのもなかなかによくできている。一人では暮らしていけない、一人暮らしの寂しさというものを俎上に載せた上で、行人のコンプレックスと相手=すずを思い遣るという二つをうまく組み合わせているのも物語をスムースに展開するキーとなっているのも、今となって振り返ってみればわかるような気がする。“生活”に焦点をあわせるために、あえて混乱要因である貨幣の存在を無くしちゃっているというのもなるほどである。作品の放映開始はただのドタバタを楽しむもんかと小ばかにした部分もあったのだが、むしろその要素は瀬戸の花嫁あたりに強く、ドタバタというよりは馴れ合いなんだが、らき☆すたに顕著に見られ、この作品にはむしろいろいろ埋め込まれている部分があるっぽい。視聴後感はなにげにしっとり感やなんか芯の強さを感じちゃうもんな〜。気のせいかな?。