なんか個人分断化の結果がいまトレンドらしいな。

 んHKが無縁社会というのを流行らせているらしい。それで結構それをテーマにしたエントリーがネット界隈で見られるんだけど、自分なんかはそれを見てブクマとかしている。そのコメントである程度ガス抜きできていると思ったんだけど、とりあえず整理をしてみたい。
 ネットの言説でよく見られるのが、田舎の閉鎖的社会を嫌って、庶民自体が無縁社会を望んだという論説。確かにそういう側面はあるんだけど、それが主要因か?と言われると、ちょっと違うような気がする。どこまで遡ればいゝのか迷うが、自分のあやふやな日本史観で述べてみたい。
 大体江戸時代を一つの道標としてみる。江戸時代はまだ村落共同体が機能しており、そこから明治維新を経て個人分断化が進むというもの。が、農村から都市部への人口の移動はもう既に江戸時代にはあったと思われる。
 江戸初期は戦国時代の騒乱も明け、開墾による耕地拡大が進み始める頃だ。こういう時期だと働き手が多ければ開墾作業もスムースに行くし、開墾した分だけ人を養う余力が生まれるから、むしろ村落共同体の発展時期だといえる。が、耕地可能な土地が飽和してしまうと話は別になる。耕作地が増えなければ、人口が増えても食わすことができないから、口減らしもしくは人口抑制策を取らざるを得ない。よく言われているのが口減らしで、農家の次男坊三男坊は都市部に流入する。まぁ食えなくなったら、都に流入していくってのは平安時代から見られる現象で、じゃぁなんで都に流れるのか?と言われゝば、そりゃ余禄があったからだろということになる。じゃぁその余禄はどこから?ということになると、そりゃ都に耕作地がたんまりあるわけじゃないから、そりゃ地方から搾取してきたんだろということになる。かといって戦国期まで流通路が発達していたわけでもなく、やはり地方は地方でそれなりにやっていたのだろう。で、まとまりが無いといえばないのだが、良く考えてみると、耕地が飽和し人口抑制策が取られた江戸末期ですら、口減らしをしてはいても、たぶん村落共同体は飢饉などのよっぽどの危機で無い限り維持されていたと見るべきだろう。
 で、江戸期に飢饉が起こったとき、食糧生産能力のない都市で大規模な餓死者が出たという記録があまり見られない。農民は五公五民とまで言われていた重税を課せられていたのに対し、江戸の町民は基本的に税負担がなかった。農村から人口を吸収して、例えば江戸は100万都市だったワケだが、大消費地でありながら、なんとかなっていた。で、都市部でも町内組織はあり、村落共同体ほどの束縛は無いにせよ、それなりの互助はあったろう。ま、とりあえず、いろいろ苦しむこともあったにせよ、村落共同体、つまり地縁は江戸期には健在だったと見てもよいのではないかと思われる。
 それが破壊され始めるのが明治以降だと思う。明治政府自体は自分の思うところ別に地縁を破壊する意図があったとも思われないんだが、結局近代化が破壊することになったといってよい。そして近代というのは家内制手工業という素地があってこそ生まれたワケだが、家内制手工業というのは文字通り血縁を基盤とするモノであり、決して個人分断化を引き起こすものではない。こゝで重要なのは資本主義という概念であり、近代化というよりは資本主義が地縁・血縁を破壊したといってもよいと思う。
 で、資本主義とは何か?と言われると、それは結局利潤追求主義だと言える。カネ儲けのために何が一番効果効率的か?というものである。カネ儲けのために人を使い捨てにするのが一番良いということになったら、迷わずそれを追求するのが資本主義である。経済学でいう需給関係一つ見ても、供給量が増えると価格が下がるとはいっても、じゃぁ価格がさかるとそれは消費者にとって都合の良いことであるという風には決して言わない。経済学の素の姿があるとすれば、それは人間重視の学問では決して無い。むしろ積極的に人間を軽視しろというものである。でもそれでは搾取対象者を納得させられないから、迂回路が整備されているだけのことである。で、資本主義の大元は何かといえば、それは植民地主義、一歩進んで帝国主義と言える。植民地住民の生活を無視してひたすら利潤を追求する帝国主義に、金融がプラスされたものが資本主義の原点といって良いと思う。この構造は現代でも変わらないのではないだろうか?。たゞ、あからさまに他国を搾取するわけにはいかないから、国内に植民地を作るワケだ。すなわち、宗主国=資本家、植民地=その他の国民というふうに二分化したものが現代の帝国主義と言える。
 そして利潤のために労働者を機械と見なしてこき使うのが近代化の本質とも言える。イギリスで児童労働が問題になったり、日本でも工場での勤務は12時間があたりまえだったりするものその現れだ。そして当時は機械より人件費が圧倒的に安かったから人間を使ったまでのこと。で、人件費が安かったから労働者に余裕を与えていたか?と言われゝば、決してそんなことはなかったのは12時間労働に象徴されている。
 そして近代化の初期は、農村の余剰人口がもともと都市に流入するという傾向がうまくマッチした。そしてこの時点では前述の通り、まさか近代化が共同体を破壊するとは思ってもいなかったのだろう。というか、共同体が破壊されるという概念すらなかったに違いない。問題は近代工業がある程度発達した後だ。そのとき起こったのは機械生産が国内の家内制手工業をズタズタに破壊したことだろう。家内制手工業は基本は血縁を主としながらも、軌道に乗って経営がうまくいけば村落共同体内の余剰労働力を吸収したであろうから、地縁も基盤になっていたことだろう。それがたぶん明治で壊滅したと思われる。当然面積当たりの労働力の投入量が多い割に利潤の少ない農業が機械性工業に勝つわけもなく、こゝらあたりから村落共同体の解体が始まったと見て良い。そしてこの結果を受けて資本家が積極的に個人分断化を念頭におくことになる。大正年間ですら資本家は労働組合を邪魔モノと考えていたぐらいだから、明治期にはもうその萌芽があったのだろう。共産主義者を資本主義の敵と見なして、国家権力と結託して弾圧したのもこの頃から。要するに労働者の権利なんて認めていたら、たゞでさえ品質が悪い日本製品のコストがあがってしまうわけで、労働者同士が団結することを積極的に妨害していたワケだ。これが戦争に向けて労働者は団結して国のために奉仕せよと言い出すのだから、チャンチャラおかしいワケだが。
 そして戦後、占領軍によって労働者の権利が認められ始めるのだが、やはりGHQも労働運動を弾圧する。デモに解散命令を出したのだから、人々が共同するのを積極的に排除する意図がある。あとは戦中のシステムを使って労働者を生産要素として徹底的にこき使い、高度経済成長期から現在に至るまで徹底的に労働者同士が繋がらないよう、自民盗を使って…というか自民盗は資本家の圧力団体もしくは資本家そのもの…分断化を押し進めてきた。過疎化は戦後急速に拡大していたワケだが、要するにそれまで、大体大正〜昭和初期にはもうほゞ資本家によって積極的に押し進められてきたと考えて良い。要するに労働者がお互い繋がっていると、それは資本家にとって誠に都合が悪いわけである。よく国鉄労組とか、労働組合を悪く言う手合いが多く見受けられるのだが、労働者同士が分断されたおかげで労働条件が悪化したわけで、労組潰しに賛成した輩は、そいつが特権階級でない限り愚かというしかない。まぁそういう意味では田舎の煩わしい人間関係を嫌って都市部に逃げた人間よりはるかにアホだといえる。
 というわけで、うだうだ述べたのだが、結局のところ無縁社会とやらはむしろ資本家やその支援団体である自民盗が積極的に進めてきたものであり、都市部に憧れて村落共同体を捨てた人たちってのは、そいつらの掌の上で都合よく踊らされてきたゞけに過ぎない。たゞ、田舎を捨てた人たちはそのことに無自覚だから救えないというだけだ。
 良く、企業が村落共同体の役割を担っていたとか言われるが、これも不適切だ。そもそも企業は営利団体であり、まさに利益のために労働者を都合よく使うというのがそもそもの成り立ちだ。それでも共同体として成り立っていたのは、経営層がむしろ企業を共同体維持のための装置として考えていたか、共同体としての居場所としたほうが当時は稼ぐのに効果的だったからに過ぎない。企業を市場原理に従って放置すると、た易く労働者を切り捨てるようになってしまうのはバブル崩壊後の日本を見ると明らかである。それでもまだ共同体としての企業がいくつか残っているのは、繰り返しになるが、経営層の理念よるかそのほうが他企業との競争に有利なだけに過ぎない。とても企業が地縁・血縁の代替物になると考える事は無理がある。
 さて、解決方法なんだが、あるのか?というか、あったとして実現可能なのか?とか、そもそも政府に解決しようという問題意識すらないだろう?と思ってしまう。共同体意識がまだ残っていると思われる限界集落問題にしたって、政府は厄介事としか考えてないだろ。企業が使い捨てにした人間たちをどうにかするという尻拭いは、資本家の代弁者である自民盗が考えるはずもないし、空き菅内閣もそういう意識はないだろう。で、市民意識で何とかなる問題か?と言われゝば、意識改革の必要性はあるが効果は期待できないだろう。
 結局やはり国家のあり方にまでいたる問題だろうとは思う。よく都市の儲けが田舎に移転しているとか言っているが、アレも本当かねぇ。都市部は田舎に要らないモノを押し売りして、不当に田舎から搾取しているだけなんじゃネェの?という考え方もできる。人間は衣食住のうち、食が一番大事で、その食って都市部で生産してるの?と言われゝば、全く違うワケだ。生活するために最低限必要な財はどのくらいで、その生産のために国民の再配置を行わなければならないだろう。資本主義も目の敵にしてもしょうがないわけで、人間軽視の部分を排除しつゝ、財の生産を効率的にするべき部分を抽出すればいゝだけのことだ。そういう本歌取りして改良するのは日本人の得意とするところだろう。要するにコントロールの問題だ。
 でもまぁ難しいところだろうな。自分の理想とするところは、少々の食糧不足でも完全自給が可能な人口になることであり、その人口でエネルギー自給も可能、資源は最大限リサイクルするような社会だ。人口も減らないといけないし、技術力も必要。そしてクレーマーやモンペがいるようなモラルの崩壊した現代では想像もつかないが、高い意識も必要だ。そうなってくると、国土を有効利用するために人口は分散配置される必要があって、いやそうなればそこで地域コミュニティが形成されることになる。新しい技術に対応した分業や共通意識が求められるから、そういう方向性でいけば、新しい共同体が生まれることになるだろう。その中で仕事でも生活でもしてりゃ無縁だのいってられないだろうしな。
 たゞねぇ、2050年ですら超高齢化社会になってるってのに、教育力の低下した日本が意識の向上だの、さらなる人口抑制だのとか言ってたら、結局のところ実現可能なのはほゞ100年先ということになるんだよね。大国の思惑に振り回されないようにもしなきゃならないし、どうすんのかね?といった感じだ。そもそもこういう生き苦しい社会にしたのは資本家や自民盗の連中なのに、そいつらの尻拭いをしてかつ努力した成果は確実に受けられないってね。だからといって自分の欲望を優先させて社会を無茶苦茶にしようとまでは思わないんだけど、やる気はでねぇよな。*1

*1:まぁまず何を措いても最初に資本家や自民盗に罪を償わせてからだよなとは切に思う。