なんか感想サイトさん低調気味?。

 と思っていたら、自分もイマイチ気分が乗らない。過去のエントリーを見ても日本語になっていない部分が多くて恥ずかしい限り。原因を考えてみたら他のサイトさんも含めて、「実は夏バテなんじゃないの?」と思わないでもない。あとは飽きてきたんじゃないかというのがもう一つかな。
 物語上の作劇手法は実はそんなにヴァラエティに富んでいるというわけでもなくて、定型から外れたものはよっぽど作りこまれない限り多かれ少なかれボロが出てしまうのではなかろうか?。神話・悲劇を初めとするものから、近代に至るまでのフォークロアまでに作られた型を元として、近代化・そして最近の情報化という社会の変化によって物語の構造に新しいものが現れるのかといえば、案外そうでもなかったということだろうか。今までも吐露してきたところですが、自分が好きであったSFが結局トレンドを築くことがなかった*1ということで判断できそうな気もします。なんつーか、ハイテクが人間を豊かにすることはないといったら言い過ぎか。ロールプレイング→ゲームブック→分岐型*2ヴィジュアルノベルという形はたしかに新しいんだけど、中身は定型化された物語の寄せ集めにしかなっていないだろうし。まぁ今のところはという限定はつきますが。結局どっかで聞いたような話にしかならないんじゃなかろうかと。そこらへんの飽き?。なんか大いに違ってそうですが。
 今月中旬に家を空けたときにいわゆるヴァラエティ番組を見てみたのですが、単純に人を貶めて笑いを取るというレベルに留まっているものはそんなになく*3て、人生経験を積んだものにもしみじみとペーソスが感じられる作りのものが結構あって、放送作家も闘ってはいるんだなと思う部分があった。ただ、やっぱりバルクで見たときに番組のレヴェルが低い…というよりは動物化しているのは否めないだろう。かといって、近々読んだテキストにしりとり侍などは不快だからといってコーナーが無くなったという話を見たりして考えさせられるものがあった。ほんとうにしりとり侍がお下劣なのかどうかは別として、「オマエらこんなのを見せときゃ喜ぶんだろ?」と視聴率丸出しのマスコミに対して、視聴者の側が拒絶を示すことが出来るというのは見方によっては悪いことではなさそうにも思える。下ネタだけで番組表が埋められているわけでもなく、クイズものや雑学ものが評価を受けているのもあながち視聴者がバカとも言えないんじゃなかろうか?とも考えられないことも無い。
 しかし、やっぱりこうなんというか一般大衆といったらなんですが、人間として視野が狭くなっているというか、まぁバカになっているんじゃないかというのはあると思う。そして実はそれは構造的な問題であって、誰が人をバカたらしめたかという方向では解決できないと思う。とはいっても人をバカたらしめておいて、自分はオイシイ思いをしようとする輩はなんとかしなきゃなんないですけどね。
 結局日本を例にとると、近代化と人の社会的能力の低下はもう切り離せくて、まず近代国家の成立につれて*4人々がいろいろな行為を外注してきたことに原因があるんじゃないかと思っています。

  • 中央政府の成立、浸透による村落共同体の崩壊→政治の外注化
  • 資本主義経済の浸透、企業形態による雇用の常態化→経済の外注化
  • 核家族の常態化、両親共働きによる個人分断、進学率の高止まり→教育の外注化

 まぁだいたいここぐらいまでは行っているのではないかと。ベーシックインカムなんて用語が出てきているんですが、こんなのが実現されることになったらわたしゃ働かずにうだうだしてますよ。

  • →生きることの外注化

 なんてことになりかねません。なんつーか、誰もが働かなくなったらそのベーシックインカムの財源をどっから持ってくるんだろう?。
 これも前々から言っていることなんですが、高度分業化社会の進展につれ、他人がどんな仕事をやっていて、それが社会的にはどのような役割を持ち、自分の仕事とどのように関連しているのかがさらにわかりにくくなって(つまりバカになって)いるわけです。分業化して生産を効率化し物質的に豊かである社会の再生産のために、自分が社会に出てどんな役割を果たすのか、そして分業化されてわかりにくくなっている自分や他人の立ち位置を確認するために学校教育というものがあったりするのですが、地域によっては崩壊しているか、もしくは自分の利益誘導機関としか捉えられてないのが現状か?。いや、世のため人のために学校に行くというよりは、立身出世のために学校に行くという言われ方が昔からされているような気はしますが。
 村落共同体の成員であれば、生きるために共同作業が必要なときには助け合わなくてはならないし、そのなかで共同体でなさねばならない仕事量や(あえて別にするなら)コストは肌でわかるだろうし、その作業の中で他人との距離をはかることもできる。自分やその家族が食べていけるためにどんな作業をいつ・どのくらい(次年度の種を確保しなきゃならないのでフロー・ストック概念は自然に身についていたであろうし)だれにどのくらい配分しなきゃならないか、家族もしくは村落ごとに考えなきゃなんなかったろう。そして、共同体を成り立たせるために必要な技術などは共同体や親などから伝達されていたと思うんです。別に農村に限らず。まぁバカはいつの時代にでもいたとは思うんですが、よっぽど因果関係が把握しにくいものでない限り、自分がある行動をとろうとしたときに、それが回りまわってどんな結果を及ぼすのか今より想像しやすかったろうし、想像しにくいものでも言い伝えや格言なんかで伝承されてきたんじゃないか?。万が一格言を破って失敗しようものなら、狭い村のことだろうから結果がまるわかりで、言い伝えが正しいことを再確認することも多かったのだろう。今回のAriaじゃないが、うかつな行動をとったりすれば、それは一生すごさなきゃならない村で言い続けられるだろうし、そういうとっぴな行動はリファレンスとして村内を還流し続けるだろうから、行動には慎重にならざるを得ないだろう。まぁ昔のことだろうから掟も厳しく、情報も今と比べて格段に少なかったろうから退屈極まりなかったと思うのだが、行動が制限されているからこそ変化も少なくて急かされることが無く、自分の行動の因果がわかりやすかったろうから、自制も効いたんじゃなかろうかと思う。他人が嫌がるのに自分の欲望を優先させ続けていればつまはじきにされるはずだから、他人を気遣わざるを得ないと思う。まぁ馬鹿じゃ生きていけないわけですよ。
 結局現代はそういうことが無いというかわかりにくくなっていると思われる。たとえ人に迷惑をかけるようなことがあっても、その行為や結果は共同体が破壊された社会で拡散されていき、行為者が反省しなくても済むようになっている。むしろそれを見越して人に迷惑をかけるのを承知で利益誘導したりする人間が現れてくる始末なんじゃないかと。もう馬鹿であっても生きていける社会というよりは、馬鹿を再生産したほうが好都合だからそうする人間もいるんじゃなかろうか。大多数の人間も、自分の行動の結果を想像することなんてしんどくて、自分の浅慮が如何に人を傷つけているかを考えたくなくて思考停止をするほうが安楽だろうし。そもそも自分が今生きている場から想像力を鍛えるという機会から遠ざけられているし、そういう状況であると気づいても気づかないフリをするほうが得な社会、つまりバカでいたほうが気楽であるという社会になっているわけですよ。
 そんな中で、アニメでもドラマでもいいんですけども、そもそも視聴者が感覚として実感できない・もしくはあえて考えないようにしていることを作品の中で主張したとしても大部分はスルーされるわけですよ。そして大抵の視聴者は娯楽として作品を鑑賞するわけですし。まぁそこでスタッフはどのような作品づくりをするのか力量を問われるわけなんですけど、まぁ視聴者のハードルよりは製作スタッフのハードルのほうが高いとは思うんで、あんまり作品の出来が悪いと書き連ねるのも自分の頭が悪いと言っているような気はする。まぁ自戒の念もこめて。
 まぁ物語性については視聴者がハードルをクリアして、製作者と作品上で対話が出来た暁に次のステップが見えてくるんじゃなかろうかとは思う。製作スタッフがハードルを下げても同じことの繰り返しにしかならず、新しさは生まれないんじゃなかろうかと。だが長々と述べてきたように構造的には難しいんじゃなかろうかと思う。製作スタッフの意図を理解できる層が一定量できたとしても数が少なければ単発花火で終わってしまうだろうし。もちろん燃え尽きることなくじわじわと裾野を広げていく可能性も否定は出来ないのですが。ただ各アニ感サイトのすぼみ気味は、はっきりと認識されていないかもしれないのだが、こう低いレベルでぐるぐる回っているだけの閉塞感がそうさせるのではないかと思ったりする。なんつーか作品視聴中には涙を流しても、もう1クール過ぎてしまえば作品があったことさえも思い出せないなんてことも多々あって、自分も結局は作品を消費してしまっているだけなのか…とむなしくなることしきり。

*1:成果がなかったということではない。

*2:同人作家や原作者によるアナザーストーリーも含む

*3:一人の“愚か者”の行動を“周囲”が笑う、そして視聴者は“周囲”と一緒に笑うという構造になってはいる。しかし、その“周囲”もいわゆる常識人という描かれ方はされないことがあって、視聴者にも寛容や反省を求めていたりする。もしくは“愚か者”が笑われている部分は“周囲”や視聴者にも大いに当てはまりうるという作り方がなされていることもある。

*4:日本での流れはむしろ近代的個人のあり方から離れているように思われるので、近代国家の成立に近づいているといってしまうのはおかしいのだが。