貧乏姉妹物語また休止

 http://d.hatena.ne.jp/SHIKAIKILYOU/20060801/p1を読んでなんか書こうと一日中思っていたんですが、駄文にしかならない。今週のいきいきホットラインが映画についてだったんですが、2〜3日前にゲストが「日本映画は一時期観客をほったらかしにしてわかりにくい映画を作っていた」とか言っておりまして、複雑な気分になってはいたのです。
 製作者側は高みを目指したいんだろうなとは思う。レベルを下げると観客は動員できるんだけど、レベルの高い観客が敬遠してしまってはクリエーターとしての本分が発揮されなくなるだろうし、レベルを上げると商業的に成り立たなくなるし。問題はレベルが低い観客でも面白く感じ、レベルが高い観客はそのレベルに応じての読み込みが出来る作品作りなんだよなぁ。言うは簡単なんだけど、まずコストや時間がかかりすぎるのが一つ。仮に上手くいったとしても、レベルの高い観客の声がレベルの低い観客の声にかき消されて作品の品位が落ちてしまうってことがままあるのが一つ。
 ハリウッド映画なんかが対比されるとは思うんですが、これも難しいところだろうなぁ。たぶん興行主レベルだと、作品を通じての製作者と観客との対話とか、作品を通じてお互いを高めあうってのはもうあきらめてしまっている*1んじゃなかろうか。だからといってすべてのハリウッド映画がダメといいたいわけでもなくて、現場レベルでは埋め込み作業をやっていると思うんですよ。具体的にどの作品のどの場面・どの主張か?と言われたら、見てないから困るんだけど。そして、やっぱり私が見ないのも、もうレッテル張りとしか言われてもしょうがないんだけど、ハリウッド映画というだけでその作品に深さを期待できないからで。そしてコミュニケーションツールとしても使えんわけですよ。
 みんな目くらましを評価しているのに、私が脇役の何気ない演技に深い意味が埋め込まれているなんて言ったって周囲はポカーンですよ。多分。職場でアニメの話なんて出来ないからアレですが、もし自分が中高生ぐらいだったらやっぱり「涼風」ぐらいがちょうどいいと思うぐらいですよ。最近喫茶店でマガジンを毎週分チェックしているせいか原作に触れる機会があるんですが、今ぼんやり思い起こしてもアニメのストーリーは良く考えられていたんでは?と感じます。私自身初めはだらしない主人公に苛立ち、何が言いたいんだこのアニメ?と思ったのですが、視聴が進んでくると不器用な男女のだめっぷりや、その他のキャラの思惑をいろいろ想像しながらあれこれ進展を生暖かく見守るのが正しい?見方だとわかってくると俄然楽しめましたし。登場人物が未熟だとわかっているからこそまさに生暖かくなれるわけだし、男女の駆け引きなんて人それぞれの見方が出来てどれが正解というのもない。ましてや金が絡んでないから世の中の不条理云々について心がささくれ立つこともない。性描写も健康的なお色気から逸脱することもなかった(いやもしかして?とハラハラはさせられましたが。)。平和なもんです。
 でも大の大人が大枚払って作る大作が世の中のどうしようもない現実から目を逸らしてノー天気なものを作って金を稼いでウハウハなんて、世の中が見えてる人ほど辛いもんだと思いますよ。自分は真理を炙り出したいと切に思っているのに、バカ相手にサーカスを提供して場当たり的な気晴らしにしかならず、結果として問題を複雑化もしくは先送りをするだけなんだとなったら特に。
 チャップリンは偉大だとは思うんだけど、まぁ今となっては他は淘汰されて今も生き残っているという結果ありきではあるし、現在ああいう映画が受けるかと言えばまぁ興行的には失敗するんじゃないか?と予測してしまうわけです。あの時代だからこそ受け入れられた部分も大きいかと。で、大衆の質が変わったのかと言えば、そりゃ質的には変わってはいるだろうと思うのですが…。西欧でも日曜に教会に行って説教を聞く人の数も減っているそうだし、日本でもどれだけの説話・民話・童話が共有されているのかわかんない。昔は昔なりの体制(共同体っていって良いんだろうか?)を維持するための倫理・物語があったと思うんだけど、じゃぁ現在の体制を維持するためのものがあるんだろうかと思い巡らせて見れば結構惨憺たるものがあるとおもう。高度分業社会を維持するための共通理解がどれだけなされているのか?。経済のグローバル化に確実にどっぷりつかっているはずなんだけど、それに対する認識は浅いだろうし、分業社会にも通じると思うんだけど、共同体を解体したものの、それに変わるべきはずだった近代的個人の確立からは程遠いと言わざるを得ないんじゃなかろうか?。高度分業社会も経済のグローバル化も共同体の解体も、すべて人間が生きていくためには何が必要でどんなことをしなきゃならないのかといった具体的な事象から遠ざかる現象で、人間にとってはそれまで目で見えていたものがどんどん見えなくなっているんですよ。そしてそれは想像で補うしかないんですがね。
 だが、行政の世界では'80年代から、福祉の行政化、行政サーヴィスの拡充、フェミニズムの行政化、教育の世界では水準の引き下げで、どんどん想像力をもぎ取っていく形で逆に社会のありかたから目を逸らす方向性に振れてきてしまっているんですよ。もちろんそれを可能にしたのは生産力を背景とする技術の進歩なりそれに伴う富の蓄積(世界的に見れば富の収奪かも知れんのですが)だったりするわけなんですが。鉄道が好きで運転手になりたいだとか製造業に行きたいなんてのは昔は多かったと思うんですが、ケータイが小学生にも安価に(親の経済力を通じてタダで)便利に使えても、ケータイの販売員やケータイの開発をやりたいなんて餓鬼はいないでしょう?。新機種が出たからといって、デザインの分野に進みたいってヤツですらいるのかねぇ?。金だしゃいくらでもいいデザインのが手に入るし、メーカーに対する要望という形のクレームをいれりゃイメージだけ伝えることで人がやってくれる。何も自分の頭で考えなくったって金だしゃ済む話なんですよ。今は。そう金さえありゃぁね。
 まぁ政財界が自分達に都合の良いようにそういう風に変えてきたってのも半分は当たっているんだろうけど、何よりそういう事態を甘受してきた側におおきな原因がなかろうか?と思ってしまいます。昔から日本人ってのは水戸黄門のように善意の権力者がいて世の中を良くしてくれるっていう他人まかせなところがあるっていうけど本当かどうかわかりません。むしろ明治になって日本が中央集権的になってからのことではないかと。明治以降も米騒動があったりとかデモ行進とか蜂起の形は残ってはいたんですが、もう行動が生活を紐帯としたものでなくなってきているし、だからこそもう単発の花火の効果でしかなくなってきている気はする。室町後期に一向一揆などのような、一定以上の人数が集まって抗議行動というか自活していた時代があったなんて信じられない。まぁ別に学があったってわけでもないんでしょうけど。
 そう考えてみると人間がお互い助け合わなくても暮らしていけるという技術の進歩が背景にあって、で他人との関わりとか社会のあり方とか運営とかに目を向けなくても済むようになって、かわりに自分の欲望に目が向くようになって、さらに周囲に目が向かなくなっていく、もしくは自分の行いがもたらす結果に思いが至らなくなっていくという流れがあって、もう読者がバカだとか大衆がバカだとかというのは時代の大きな流れからするとどうしようもないことなんじゃないかと思ってしまう。なんつーか、まだ製作者が視聴者はバカだと言っているほうに良心を感じたりするんですよ。アニメでなくて実写ドラマでもそうなんだけど、より動物的な娯楽であるバラエティと視聴率を競わなくちゃなんなくて、ダメなら打ち切りなんですよ。製作陣がそこであきらめちゃってコンテンツを動物的にするんじゃなくて、まだメッセージが伝わるかもしんないと行間にいろんなものを埋め込もうと格闘しているのは喜ばしい限りと思うんですがねぇ。

*1:まぁ合衆国は基本的に移民の国なんで、言葉というよりは文化が違っていてもわかってもらえる作品づくりというのを目指さなきゃなんないって制約もあると思う。結局そうなると描くべきテーマ、表現なんて限られてくるんだろうな。それが結局誰にでもわかりやすいということに繋がってくるんだろう。そういう文化的差異を初めから排除した作られ方だからこそ世界的な支持者が多くなるということにもなるんじゃなかろうかと。