無印なのは その3か?

 だいぶ無印についての駄考がなおざりになっていました。とりあえず整理。

  • 無理難題を押し付けられている人々への応援歌的要素…なのはは粛々と仕事を押し付けられる人々のメタ
  • その無理難題とは人々の飽くなき欲望ではないか…ジュエルシードは記号
  • 信用の大切さ…レイジングハートの認知

 さてもしかすると既に記述したのかもしれませんが、魔法少女モノのお約束について触れておきます。まず魔法少女は困っている人(や事態)を助けるのが目的であることが多いと思います。そして少女が使用する魔法はダイレクトに人を助けたりすることは少なく、実際に問題を解決するのは少女自身の努力や勇気もしくは思いやりだったりします。あくまで人間の力の範囲を越えないのが望ましい。だから魔法を使って変身はするけれども、超常的な力は発揮しないのが普通です。そういう描き方をすることで(少年)少女達に自分で努力することの大切さを伝えるワケです。ドラえもんは実は全く反対の描き方でそういうメッセージを伝える作品です。象徴的なのは長年続いたあの主題歌を考えてみてください。あれはひたすらのび太ドラえもんに便利な道具を出すよう甘える内容となっております。しかし作品自体はドラえもんの便利な道具に頼ったのび太のダメさ加減をひたすら繰り返しているワケです。もちろんのび太が自分で努力して問題を解決したり、友情などを描くこともありはします。が全体的にはキョー烈な反語表現となっております。ドラえもんの取り出す道具に目をくらまされているうちはまだまだガキで、製作者のメッセージがなんとなくわかってくると“卒業”して視聴しなくなってくるワケです。
 だから敵が超常的な力を使ってくるときに限り、魔法少女に同じ力を行使させる*1という描き方を普通はするワケです。そして敵の超常的な力も普通はこの作品のように何かのメタであったりすることが多いのです。子供自身は登場人物達が戦って魔法を使い、色とりどりの派手な効果を花火でも鑑賞するように眺めているのが、その後ろで親世代は魔法が金や政治などの権力装置やその他のメタなんだと読み替えてニヤニヤもしくは生暖かく見守っているわけなんです。その作品を見た子供が成長でもして、運がよければそのメッセージに気がついてくれるかもしれないのです。
 と構造をおさえたところで、やっぱりこの作品もこの魔法少女の文脈に沿っているんじゃないかと思います。第3話は恋愛至上主義という商業的権力への批判、第4話は大きくなりたいという素朴ではあるんだけど配慮が全然ないという自己中心主義(今読んでいる本で言うと自由・リベラリズム)への批判がこめられているんではないか*2と。いずれも本人たちの欲望を支持する主義主張ははマスコミなどによって擁護されているため否定しにくく、それが権力のメタとなっております。本人たちは気が付かないのかもしれない(ふりをしている)のですが、権力が欲望をより拡大再生産しているために、主人公は努力だけでは対処しきれず魔法という巨大な力を借りざるを得ないわけです。ただし、この作品は権力に対抗する超常的な力としての説得性*3にはあまり考慮がなされていない気はします。ありていに言えば力で抑えているだけ。
 第4話の途中からフェイトが登場し、以降は友情の描写に切り替わります。話数が多かったら、なのはに一話ミッション解決型の奮闘記をさせてるんでしょうけどねぇ〜。
 

*1:人のためだからこそ魔法が使える・人が手助けしてくれるわけでして、自分のためだけならたぶん魔法は使えない・もしくはかみちゅのように使わない描写が多いと思います。

*2:他人に迷惑をかけなければ何をやってもいいとはいうけれど、実際には大いに迷惑をかけていることが多いんだよっ

*3:敵が人に迷惑をかけているのなら、迷惑をかけないもしくは抑制や迂回などするための具体的な方法みたいなものが主人公の魔法にこめられていなくてはならない