感情の起伏は必要か

 スターシップ・オペレーターズは出来が悪いように見えるらしいということを昨日述べました。スタッフの意図したことがうまく伝わっているかそうでないか、スタッフの表現がまずいのか視聴者の受け取り方が悪いのかはなかなかうまく判断がつきません。いまはそれを保留するとします。
 「感動的な物語」というのがあります。一見すると物語というものは感動的であるほうがよいと考えられがちです。自分もそう思っていたのですが、初めからお涙頂戴路線をうたっているものを見なくなっているということに気付きました。例えば不治の病にかかっている患者の物語とか、人助けが主題のものとかは自分から見ようと思わなくなっています。人を泣かせようとする意図が見えすいていてあざとく感じてしまっているのでしょう。そうはいってもスポ根ものは見たりしているのですが。
 ある人に感動のない人生は意味がないと問いかけられたことがありました。そのときは深く考えもせずに同意したのですが、ちょっと考えてみると空恐ろしい気がしました。感動的な作品も繰り返して見ると飽きてしまいます。何度見ても素晴らしい作品というものは確かにありますが、それにしても限度はあります。毛色が違っても作品の目的が感動であれば、いろいろな種類の作品を見ても根の部分で同じ物であることがわかってしまいます。慣れとは恐ろしいもので、さらなる感動のため表現が過激なものを求めちゃったりしています。柳田國男『明治大正史世相篇』を読んだことがあるのですが、昭和の初期ですら昔に比べて人々は考えられないほどの刺激にさらされるようになったと書いてあったような気がします。現代はその時代に比べてもラジオ・テレビが普及し、インターネットや携帯電話まであるのですから、いかに大量の情報にさらされているのかが想像できます。かといってそれらの情報端末がまったくなかった時代の人々が不幸な生活を送っていたわけでもないでしょう。なまじっか感動的な人生を求めるがゆえに人を不幸にする事があるのなら、ないほうがましな場合もあるのであって。
 最近の作品は視聴者の趣向に合わせて極端に類型化されたキャラクターがいて、それを特徴付けるいくつかのエピソードを伴なって登場してきます。そして視聴者を陶酔させたり泣かしたりするストーリー作りがなされます。この代表例がいわゆる萌え作品なわけです。魅力的なヒロインを登場させ、視聴者を感情移入させるために合理的にエピソードを配置し、適当なころあいを見て効率的に感情のスイッチを押す。いかに視聴者の感動を効率的に引き出すかが重要であって、キャラクターやエピソードに独自性があろうとなかろうと問題とはならない。より強い刺激を与えてくれるものが素晴らしい作品だとなってきているような気がします。強い刺激を受けつづけるとそのうち麻痺し、さらなる刺激を求めてエスカレートしていく。こんな麻薬患者のような状態が果たして正常な状況と言えるのでしょうか。しかしどうなんだろう。これは言い過ぎのような気もするし、やっぱり衝撃的なものを見たいという気もあるし。
 かといってスターシップ・オペレーターズがそれを打ち破るだけの十分な実力を持った作品とは言い難いのが辛いところです。しかし普通なら感動的に見せるべき場面をあっさりと流すことが多いことから、このような現状へのアンチテーゼが感じられてなりません。まったく無いわけではないのですが萌え描写が少ないのも、スタッフが意図的にやっているような気がします。うーん。やっぱり萌えをやりたいんだけど尺が足りないので仕方がなく切り詰めているという可能性もありはしますが。ただ淡々と進んでいるからといって、そのことだけで作品がダメと判断するのは早計です。これはアニメで娯楽作品だからこの場合には当てはまらないと思いますが、学術論文を面白おかしく解説してくれないから研究成果を評価しないというのは馬鹿げていると思いますし。まったく無いというのもどうかとは思いますが、感情の起伏なんてないほうが主題が読み取りやすかったりするんじゃないでしょうか。