放課後のプレアデス 第3話

 なんか早々と直球勝負に来てるなぁ。
 大人でもなく子供でもないという台詞からはもうターゲット層がどこらへんにあるのか明らかといったところだが、なんとも甘酸っぱいねぇ。可能性の話を取り上げてみると割と若者にやさしく解説という感じで、昔だったらこう若者ってのは何の根拠もない自信に溢れていて可能性なんて他人に説かれるまでもなく際限もなく肥大化してたような気もするが。そのへん停滞社会における若者に対する背中押しというか、応援みたいなところなんだろうか。年をとってみると若者時代の自分の可能性なんて大それていたなぁと振り返りもするんだけど、でもこれは結果としての現在の社会の停滞振りに大きく左右されるという要素が非常に大きい。もし今の社会が昔に比べて飛躍的に発展してたら、夢を追いかけてよかったとか、もっと大きい賭けに出ても良かったなぁということにもなる。昔の印象として若者自体が失敗を恐れないで無鉄砲に行動してたような感じだが、今は年長者が若者に失敗を恐れるなと手助けしてるような、「いったい若さって」というのを思い知らされる感じだ。とはいえ、今の日本がどちらかというと昔より失敗を許さない全体のパイが少なくて、そこを既得権益層が独占している度合いが大きい世の中になってしまっているから、行動するにも考えも動機も硬直化しているのはある意味しかたがないとは言える。
 この作品における「かけら」が何のメタファーなのかというのがどうにも特定しにくいが、そこはもしかするとそれ自体でなくても、それを捕獲する行動自体がやはり「個人としての可能性」なのかなと思わなくもない。成長するにしたがって掴むことができる、慎重に扱わなければならないという取り扱いからは現段階ではそう考えるのがよいのかも。
 今回は高空で飛びにくゝなるところなど、レシプロエンジンは空気が薄くなると出力が落ちるだとか、主人公が風を整えて後続を飛びやすくするというのは過給器の役割かなんかなのか(父親がエンジン部品を持ち帰っていたときに過給器のタービンが映っていた)とか、いろいろ想起される部分があって、富士重工業も飛行機を作るならジェットでなくてレシプロ機にロマンを感じているのかねぇとか余計なことを考えてしまった。