ささみさん@がんばらない 第12話

 なんか焦っているような終わり方。
 結局自分的には訳わからんといったところ。鎖々美が多神教、つまりマルチラテラリズムの立場で、蝦怒川(もしくは以前の呪々)がユニラテラリズムの立場で、その一神教的価値観の否定で終わりなんかな?と思わなくもないんだけど、その鎖々美のほうに、多神教の価値が概念的に語られているだけであまりはっきりとした肯定も露出してないからどうもね。かといって、これだけ突飛なお膳立てをしておいて、表面的に語られていた親子の情だの友情だのといったものが本質とはとても思えない。それらはせいぜい場を和ませたり、あまりはっきりと語られない本質の修飾物というか、気休めとしか。鎖々美がひきこもりという当初の見せ方もミスリードで、かなり外向的な性格(人付き合いがうまいとまではいわないが)であるというのもなんだかといったところ。邪神姉妹も強大な力を秘めたマイノリティーではあるが、決して社会のアウトローでもないし、下層階級でもないから、物語が繰り広げられている場は明らかにいまや日本ではめっきり減ったと思われる中流と上流階級のお話のようにしか見えなくて、どこに社会の縮図や矛盾を汲み取ったらよいのか迷うというか、あるのかそんなもんといったところ。
 かといって、旧来からの疲弊した日本システムというのをおぼろげながら提示して、それに対する批判というか、超克らしきものは語られていたが、そういうのが視聴者にどの程度刺さるかだよねぇ。女の子が若干可愛らしく描かれてはいるけど、それが作品世界全体の魅力を引き上げているか?といわれると微妙だし、登場人物間では隠してないのに、視聴者には頑なに顔バレを避けている鎖々美兄の立ち位置とかはかなり微妙。視聴者の感情移入をシャットアウトさせるための造形なんだろうけど、この12話をざっと振り返るとそれほど必要なキャラクターだとも思われない。そう、原作者は明らかにカネ儲けのためだけにこの作品を世に出したわけでもないだろうに、かといってともすればヒットすればおそらく作者の思惑とは違う方向に解釈されがちなものに何でしてしまったんだろうか。もうちょっと真剣な方向に振ってもよさそうな気がするのだが、まぁそれは身勝手な一視聴者の妄言ではある。とはいえ、そういうのは続刊を読めってことなのかね。
 というわけで、ちょっとこれは今となってはそれほどアニメを深く読み込むような視聴態度がすっかり薄れた自分のような視聴者には今一しっくりこない作品だった。いろいろ思考実験を繰り返して、この作品の意図を掴もうとすればそれなりの成果が得られそうではあるが、いや、なんていうのかな、タイミング的にそういうのをわかっておくのは無理な話だが、庶民の立場を標榜してその実、旧来の自民盗利権政治に与りたいだけだった民主盗の政権交代に絶望した日本国民や、先の選挙ではかといって、旧来の自民盗利権政治をどうキャンセルしたらよいのか、その手段や選択肢すら奪われて、現実社会を変えることも出来ない理念や、あるべきシステム論を上から目線で語られてもなといった日本国民の思いとか、こういう作品ではちょっと掬い上げるのが困難なのでは?という気はする。いや、現実社会を変えるような作品にしろと原作者やアニメ製作者に求めるわけでもないが。お遊びの態度がないと堅苦しくて見てられないけど、社会の変化はこういうのはもう時代遅れにしてしまったんだろうなという同情は禁じえないが。厳しいことを放言したが、まぁおもろぐらいということで。