たまゆら〜もあぐれっしぶ〜 第12話

 第3期やらないの?。
 と思って調べてみたら、完結編と銘打って劇場版になるらしい。全4部作と書いてあるが、どういう形式なんだろ?。劇場版×4なのか、テレビ形式30分×4を一本の劇場版でやるのか?。この最終回を視聴した直後は、第3期の金策が尽きて、三谷の卒業とぽって達の卒業をかけてたまゆらシリーズ全部を〆たのかなと思ってしまった。まぁどっちにしろ続編の企画が通るかどうかわかんないし、仮に通る見込みが大きくても、どんな事情で中止になるかもわからないということで、これで打ち止めであってもおかしくないようにこういうエンディングにしたんだろう。
 結局父親の話題で〆ちゃったな。前期ではほとんど父親の思い出が表に出てこなかったので、今回のこの父親プッシュには違和感を持っていた。ぽってが父親を亡くして打ちひしがれておりという描写は前期にやるのが順当だとは思うんだけど、この話の流れだと、父の死によるショック状態はそのときに終わっており、1期がある程度立ち直って周囲によるリハビリの段階、この2期は時間がたって父を振り返る段階だったのだと思う。そう考えると、この作品は全体を通してぽっての療養モノであるという感じがする。高校生という時期と重なっているために、どうしても若者の成長モノと考えがちだが、今回の唐突ともいえる母親の押し出しだとか、そういや全体的にぽって支援の要素が友達に色濃く現れていることを振り返ると、単純に女子高生が田舎で青春ライフをのんびり送るって考えるのは避けたほうがよいのかもしれない。1期こそ父親の影は濃く無かったのだが、2期でのこのプッシュを考えたら、父親というのは「今は失われた何か凄く大切なもの」であって、これは何の隠喩なんだろう?、そう考えると精神的なダメージを受け、回復しつゝあるぽってはなんの隠喩なんだろう?と考えると、なにか深いものが仕込まれていそうな感じではある。それはよく物語に採用される単純な地方像(この作品ではノスタルジー的な地方が描かれていない)や家族像(今回の話にある「ありがとう」という概念はむしろ新しい家族像のように思える)ではない*1んだよね。むしろ古きよきニッポン像は注意深く排除されている。
 地方を舞台にした物語ということで、地域おこしという要素が見られるかという点も本作に期待していたところではあったのだが、外見上はそれに関しての描写があまりにも少なかった。憧憬の道にしても、地元の人の関わりというのは参加者だけに止められていて(かおたんの父親が運営に関わっているというのが台詞で触れられるだけ)、基本ぽって達の物語で埋められている。かといってその描写がないというわけではなく、たとえば、ほぼろ焼は昔の味を守りつゝも固定客相手の商売ではなく、喫茶たまゆらも観光客相手に経営が安定するようメニューをいろいろ工夫している様子が描かれている。マエストロも銀塩プリントを維持しておそらくローライも他所に依頼するんじゃなくて自分で修理を行ったように見える。その土地にある繋がりがほとんど描かれず、その土地、業界のやり方だとか町おこし振興だとか公共工事に依存するようなものではなく、むしろ各個が自分のスキルで自活するその総体として町全体が活気づくという風に見える。地域の古い繋がりは描かれていないだけでないというわけではないんだが、作品を通じて述べられているのはそうなんだろうなと思われる。
 まぁこれはそうなんだろうなという気がする。古い繋がりが本当に力を持っているのなら、地方から都市への人口流出はあまり起こらなかったはずであり、仕事がなくて都市に流れていく人たちを引き止めておく力は在来の繋がりにはないわけだ。というか、力の及ぶ範囲でしか地方に人を引き止められないといったほうが正確か。もちろんそれぞれの地方では、一部のものが利権を維持するために、引き止められる人を引き止められなくて頑迷なまゝ衰退していったところもあろうし、地域の繋がりが私利私欲を廃して全力を尽くしてもうまくいかなかったところもあろう。あたらしい商売をはじめるところがあれば、それを支援した地域もあろうし、足を引っ張った地域もあろう。が、そういう地域のありかたではなく、この作品は個人に焦点をあてゝ、その個人と個人を繋げている一本の線を重視しているように見える。
 それは今回の目玉でもある写真部の描写自体がそう。普通部活だったら二人にはしない。ありきたりな流れだと、ぽってが写真部を作ったから、形だけでも「つきあい」で帰宅部であるはずのかおたんなりのりえなり麻音なりを入部させてうだうだする日常を描くはず。が、ぽっての友人はそれぞれ自分のやりたいことを持った自律した人間として、ぽっての応援部という形にしている。で、一人で黙々と活動する姿を描くのではなく、もう一人だけ入部して、まさに二人の間の一本の繋がりを作って、それをクローズアップするわけだ。物語なんだから、初期設定なんてなんとでもなるので、多人数の部員にして、多数の部員をまとめるぽってのリーダーシップとは!という話にしても良さそうなものなのだが、それはしない。この作品でもわざわざ言及されていたが、つながりは描くが、人をまとめるというのは全く描かれない。一対一の繋がりの有機的な広がりが社会を作っていくのであってというのが描写されており、従来型の(縦の)リーダーシップとやらを必要とする組織は、これは巧妙に排除されている。新しいといえば新しいともいえるのだが、いや職種のヴァリエーションこそ無かったが、むしろ個人個人が農家という一経営体であり、それらの有機的なつながりが農村なりを作っていた昔のあり方に近いといえば先祖がえりであるとはいえるんだよね。
 また風景として歴史的建造物が出てはくるけど、その土地の歴史的な由来にもほとんど触れられないのが特徴的だワナ。まぁその土地のあり方を形作ってきた歴史には大いに意味はあるんだけど、現代ではそれがもう地域の経済を支える力をほとんど失っている以上、人を引き止める力はなくって、利用はするだろうが、基本は上述のように個人個人の商売上の努力がその土地を支えるって形になっているように思える。ぽって達が訪れ、写真という記録に残して視聴者に提示しているのも、その時点の人のいきいきとした姿であり、その時点での風景であったりするわけで、今味わえるものをありのまゝ受け入れるという姿勢だわな。まぁあたりまえといっちゃぁなんだが、なにか人をひきつけるシンボル的な要素があって、それに頼るってのともちょっと違う。
 しかしまぁ本作はネガティヴなものは一切描かないので、ほんとうなら地方の嫌なところとかあってもそういうのはまるでないように見えるのがちょっとハードルが高いようには思うかな。そんな奇麗事ばかりじゃネェだろってのはあるんだけど、しかしそういうのはケースバイケースなので、確かに描かないのは正解かな。
 そんなこんなでだらだら書いてみたが、情緒エピソードはともかくとして、社会性で言えば、もう境界のはっきりした地域コミュニティというのは描かれていなくって、個人個人の網の目のような繋がりがあって、その広がりが地域(というか個々の人間を中心とした)コミュニティって構造はなるほど現代的なのかなといった感じ。大企業だのといった「容れ物」に入って、その内と外で利権の奪い合いをするって構造ではないんだよね。しかしまぁこういうあり方は個人個人が自律してないとダメなんで、強者依存に依拠する弱い人間*2には辛いあり方かもしんない。が、そういうときのセーフティーネットっつーか、つながりの最小単位として家族が設定されているんだろうなという感じはする。とはいえ、家族でも個は個として尊重するって態度なのは今回の母親との描写でも明らかではあるんだけどサ。
 というわけで、もあぐれっしぶに具体的に何を期待していたとかそういうのは実はあんまりなくって、視聴してれば何か得られるだろ、少なくとも毎回泣きの感動はあるだろうし、しかし、他の作品より視聴したい気持ちは大きくて…という状態だったが、そういうものからするとエンタメ性は少なかったような気はした。しかしまぁ自分はこうやって視聴後だから言えるんだけど、やはり作品のメッセージはなんだろうかとあれこれ考えながら視聴して、自分なりの解釈を形作りながらってスタイルのほうが良いとは思っているので、このほうがありがたいといえばありがたかった。いや、その分、最終回まで視聴しないとなかなかその形作るってことがしにくいわけなんだけど。
 あたりがやわらかいから拒否反応は少ないだろうけど、見る人を選ぶというか。劇場版を視聴しない人のために、現段階ではおもろ+という対外評価をつけてみるけど、自分の中での評価はもっと高いかな。とはいえ、続編を視聴した上で全体の評価をするべきとは思う。なんか劇場版では今までに散らかした伏線を回収してみせるってことらしいので、やっぱ1つの作品として評価するためには全部を見ないとね。

*1:これはたまこまーけっとでもそう

*2:強者として頼られるほうも、強者に頼るほうも両方