とある魔術の禁書目録Ⅱ 第10話

 恐るべし、クローチェ・ディ・ピエトロ。
 要するに、日本企業あるところ過重労働アリってなところか。まぁ日本企業というよりは、資本主義とでも言ったほうが適切なんだろうが。それが据えつけられると、すえつけた側の論理が無意識に広まってしまうってのは、このエピソードのギミックとしてはよく出来た設定だと思う。
 もともとは、大航海時代にスペイン・ポルトガル中南米を征服し、それがキリスト教*1の神の名の下に行われた。じゃぁ、征服された民族が現地宗教の神の名の元にキリスト教世界と戦ったか?と言われると、抵抗してこっぴどく負けたか、それとも無抵抗にせよ、あっさりキリスト教を受け入れてしまって、キリスト教帝国の搾取による貧困・不幸からの救いをキリスト教の神に求めるという、文化・文明的視点で考えるとなんとも救えない結果になった。
 この構造は日本企業の海外移転でも同じ事が言えそうである。もちろん大企業は安い人件費、設備投資費をめざして海外に安い工場を建て、安いコストで作られた製品を海外市場で売りさばくことによって利益を上げるのが目的ではあるのだが、現地人に求めるのは、日本人と同じ労働規律、作業効率なわけだ。海外移転先の工場で、あまりの過重労働に耐え切れなくなった現地人が暴動を起こしたり、サボタージュをしたりしたのは、マスゴミが国内向け報道では口をつぐんでいたから大々的に知られる事はなかったが、もう何十年も前のことではあった。
 そして、中国の改革解放にあわせて日本企業が殺到したわけなんだが、まず初めにそこで起こったのは、労働文化の違いによる齟齬だった。日本企業は中国の現地人に日本人と同じ勤勉さ、我慢強さを求めていったのだが、労働慣行の違いによって、うまくいかなかった。うまくいったとしても、技術を覚えた現地人はあっさり辞めたりしたし、日本人の管理職を追い出して設備を私物化したりした。が、現地人が日本式経営のやり方に慣れ、それが効率的な搾取によって利益を生むことが可能だと理解されると、拡大的な進化を遂げた。Appleではあるが、Foxconnで自殺者が何人も出たというのは、日本的抑圧経営が現地に根を下ろしたという証拠に他ならない。ルノーのゴーンが日産から日本式経営を取り入れて、フランスでデザイナーが何人も自殺したというのもちょっと昔の話である。日本的経営が、何ゆえ自殺者まで生み出すほどの過重労働を雇用者に強いるのか?という点については、実は日本式経営がイギリスの産業革命時における苛烈な労働慣行の正統な後継であるということにもよるのだけれど、それは別の話。ともかく、日本式経営ってのが一旦取り入れられると、それが一時的に雇用者を富ませ、また経営者にとっては甘い汁であるからこそ浸透もし、それが恒常化するとそれなしではいられなくなってしまうって性質が結構ある。
 もちろん、それほど苛烈なものでなくとも、例えばコカ・コーラマクドナルドなどのファストフードや、コンビニなど、大資本による経済活動が世界中の食文化や経済環境を変え、現地文化を破壊するというのでも構造は一緒だ。今回、オリアナが持っていたスタブソードが、もともと日本の食文化にはなかったアイスクリームの看板であるというのも、これに対応していると思われる。精神的なハードルが高くないからこそ、一般的に受け入れやすくなっており、しかも慣習化するとそこから抜け出すのは容易ではない。まぁ上記に挙げた例も、絶対そうなっているとまで主張するつもりもなく、現地では拒否反応が出たり、浸透スピードが遅くて、完全な文化侵略とまではなっていない例も多数ある。現地の文化と混淆して、別の発展を遂げているものもあったりして話はなかなかにして複雑である。しかし、スタブソード改めクローチェ・ディ・ピエトロを「グローバリズム」だとか、「消費社会」とでも言い換えれば、それほど正解から遠いものでもないんじゃなかろうか。
 というわけで、自分にとって今話は、クローチェ・ディ・ピエトロの設定の衝撃が結構大きかったので、それ以外のものがかなり霞んで見えた。当麻のキレイ事も上ずっていたように思うし、当麻vsオリアナの戦いも、オリアナの技が多彩であること以外の見どころがあまりなかったように思う。その他萌え描写なんて時間を埋める役割しかなかったんじゃ?とまで思えてしまう始末。やっぱこの作品って記号の設定の仕方がうまいんだろうな。それに考えが至らないと面白さが半減というか。しかし、この様子だとオルソラ救出エピソードに見られたような「状況が現出する構造の面白さ」みたいなものは見せてくれそうな気がする。

*1:ローマ・カソリックであるところがまた素晴らしい一致