そもそも成果主義なんてのは、バブル崩壊後の失われた10年のうちに盛んに喧伝されてたから、もともとは給与カットの口実でしかなかった。そうでないところもあったかもしれんのだが、バブルの時ですら、成果関係なくいろいろな社員一律に給与が上がってたもんな。そして、成果主義が言われる前から、出世という形で社員の評価がなされていたり、そもそも会社によっては成果を挙げても挙げなくても、出世できる人間は初めから決まってたってパターンが多かったように思う。とりあえず引用。
仕事って、細分化すると、それ自体は楽しいしエキスパート化するけど、それ以外の事をないがしろにしがち。
経理は現場を見ないし、現場は金計算できないし、絵描きは自分の絵にしか興味がない、デバッグチームはバグが無い事が最重要でゲームの面白さは2の次以下になる。開発は面白いゲームを作りたいだけで、スケジュール意識が足りない。某会社とかも、プロジェクト毎に人を流動させてて一見理想的なんだけど、トップの人が流動しないので、結局上層部にコビを売る必要があるとか、上層部同士が結託してて、上層部クラブへ踏み込む手段がまるでないとか、長く生きてると、それはもう色々なグチを聞く。
価値観を決めるのは上層部なので、そこが間違った価値観を持ったまま固定化するとロクなもんじゃなくなってしまう。
ちなみに、このエントリーの元ネタは
給料に不満を感じる理由――日本に根付く“陰気な成果主義”とは? 魚拓1 2
特に、富士通の人事部に在籍されていた城繁幸氏の「内側から見た富士通 『成果主義』の崩壊」は、実情を知る元人事マンが成果主義の機能不全の様子を具体的に書いた本だったので、大いに影響力があった。当時の富士通の成果主義は、最終的には個々人が目標を立てて、その目標の価値と、達成度合いによって、個人の「成果」が評価されるようなシステムであった。しかし個人が達成しやすい目標を立てて能力を十分発揮しなくなったり、上司による「評価」に多くの不満が出て、組織の雰囲気が悪くなったり、といった弊害がリアルに紹介されていた。読者にも似た制度を経験した星方が多いのではないだろうか。
成果主義の弱点は3つ
経営者に近い社内エリートのことを筆者は「経営茶坊主」と呼んでいるが、「陰気な成果主義」は、現場と経営者の間で経営茶坊主たちが活躍する場を確保するとともに、現場に対して茶坊主が経営者の権威を借りて接する際のツールともなる。「陰気な成果主義」のシステムは、個人の目標の総和が部署・部門の目標であり、さらにその総和が会社全体の経営目標となっていて、事後的には、それぞれの達成度の総和が会社のパフォーマンスになるような整合性を持っている(かのように見える)。あたかも、表計算ソフトのようにつじつまが合っていて、弱点を知らない場合、論理的には反論しにくい構造だ。概念で考えがちな、社内エリートたちにとっては納得しやすい構造にできている。また、このツールは、部署の目的の重要性によって社内の人的資源を配分する上でも使い勝手が良く、経営茶坊主たちが社内の人事権を確保するのに好都合だ。
それでは、このシステムのどこに弱点があったかというと、1つ目は目標の評価が完全には出来ないこと、2つ目は事態の変化に対する対応に柔軟性を欠くこと、3つ目はインセンティブの仕組みとして弱いことの3点だった。
これらの中で最大でかつ根本的な弱点は、目標評価の難しさだろう。現場の具体的な成果をどのくらいの価値だと評価するかということは、経営の根本ではあるが、簡単ではない。特に、個々の現場が専門性を帯びてくると、経営企画担当役員のレベルでは、目標自体の価値を正しく評価することができない。
「陰気な成果主義」は、外資系のある人事コンサルティング会社が日本企業に売り込んだものだが、購買の決定力を持つ実質的顧客を「経営茶坊主」たちだと見定めて、彼らに適合したプロダクトを作って売り込んだマーケティングの成功例としては大いに研究の価値があると思う。
この「経営茶坊主」が今経営層に居座っていると考えていいんだろう。ちなみに、記事の著者は本物の成果主義は「陽気な成果主義」と言っている。本物とは言っているが、その「陽気な成果主義」がいいものだとはあまり言ってないんだよね。
その理由が
荒稼ぎして“逃げた”輩たち――陽気な成果主義が招いた罪とは?(後編)で、いわゆるサブプライム恐慌を起こしたのが、この陽気な成果主義って見方をとってる。
成果主義の是非というよりは、無能…いや有害な人間が上に居座ることを回避するシステムもしくは保険ってものがなかなか確立しないってところに原因があるような気がするんだよな。いや、歴史を振り返るとそんなことは実現不可能って気がするんだが。