ソ・ラ・ノ・ヲ・ト 第9話

 なんだ、イリアとやらはもう死んでんジャン。
 しかも休戦協定の前だから、あれだ、戦争中に前線で犠牲になって死んでるわけで、後方でのうのうとふんぞり返り、徹底的にやられるまで休戦など考えず、敗戦後は命乞いして居座ったどこぞの国の皇族とは大違いってワケだな。
 というわけで、リオは別に皇族ではありませんでしたってことになったのかな。でも父親がお偉いさんのようで、なんとも謎が絶えないわな。しかし、家にそれなりの格があるんだったら、曹長なんて意外な感じだ。逆にクラウスなんて万年大尉って感じだが、佐官だしな。
 今回のポイントは自分が臆病と自覚していても他人はそうでなかったり…と、大切なものを守るという事はどういうことか?の二本立て。
 前者は、フィリシアのいい上司ぶりに泣かされるんだが、リオやクラウスが自分を見つめて心情を吐露しそうになるのだが、踏みとどまるところのチラ見せ(クラウスは明示的過ぎたが)ぶりがなんとも。カナタらはリオの様子がおかしいと気付いていないながらも、決してリオの心の中までは見通せないところはシチュエーションとしても良くできていたような気がする。対して刺青がないのに気付いてしまうクレハのほうは女心なんかねぇ。それでも大切な人・あこがれの人には変わりはないってのに美しさを感じてしまうのだが、両者とも抑揚のない日常を長期間続けていくなかで、そういうのは維持できるのかな?とちょっと醒めた目で見てしまった。
 セイヤの茄子騒動は、ミシオの口から所在が出てきた時には、子供をダシにした窮地設定かと訝しがったんだが、茄子に込められた想いってのが、周囲のキャラにも相似形で現れており、これまたよくできていると思った。茄子がどうでもいいものにされてしまったら、結局それはまわりまわってみんなどうでもいいってことになっちゃうんだよな。
 今回気になったのは、洪水でいろんなものが崩れる描写。セイヤが登ったあと、クレハが登る寸前に崖が崩れるのだが、うえからの俯瞰で、あまり強調されていなかったのに感心した。たぶんあゝいう嵐で周囲が騒がしい中崖が崩れても、実際に迫力は感じないんだろうなと思うと、結構リアリティがあると思うのだ。アニメなんだからもっと水しぶきを派手に散らしたりしてもいいんだけどな。でもまぁその後の崩れる描写は結構漫画的ではあったので、バランスがよくわからんかった。作画的になにか意図があるのかいろいろ考えてみたけど、わかんない。
 まぁなんのかんの言っても、台詞にはいろいろ繋がりがあるとわかって面白い。