経営理論 偽りの系譜―マネジメント思想の巨人たちの功罪、読了。

 偽りのってのがタイトルにあるが、アンチ臭がしなかった。結論をいうと、結構面白かった。
 マネジメントについて、単純な二元論、即ち経営者のトップダウン方式と、労働者のボトムアップ方式はどっちが優れているか?って視点だと、著者はどうも前者の立場なんだが、合衆国の学者はどうも後者を好むらしい。そして延々と失敗しつづけているが、相互相補的に発達してきた部分もあり、結局バランスというか、目的と手段を取り違えるなって結論のように思えた。
 マネジメント理論を打ち立てた思想家(テイラーからドラッカーまで)について、歴史学的立場から出来不出来を論じていたりするわけなんだが、それだけでなく、合衆国の産業史みたいな部分も記述があって、これがまた面白いのだ。
 現在の日本の惨状に繋がると思われる部分について、ちょっと抜粋。

 だが、レーガン政権下のアメリカは、トマス・ジェファーソンの描いた国家像を捨てて久しかった。
 多くの市民が政府と企業の統治のもとで働いていた。小さい政府は経済成長にはつながるかもしれないが、果たして自由や公正をもたらすのだろうか。社会の二極化を予想した人はほとんどいなかった。最前線の社員は給料が据え置かれたまま仕事ばかりが増え、しかも雇用不安の高まりにさいなまれるというのに、経営者はというと、報酬を何倍もに増やしたうえ、簿外のストックオプションで利益を得る−このような事態は予想されていなかった。(p298)

 いやぁ、子鼠政権前後に日本で起こったことと同じじゃないか。原本の初版が2003年だから、この著者がその時の日本を熟知して書いたわけでもなかろうから、というか、合衆国では小さな政府で格差拡大ってのは経営陣にとってはあたりまえの事項であったと見るべきだろう。レーガン政権って'80年代だから、日本はこうなるのを知ってて合衆国のやり方を真似て経営層の報酬を増やして労働者を追いつめたとしか考えられない。

 日産自動車では一九五三年に激しいストライキが起き、そのごドラッカーの勧めにより終身雇用制度を取り入(れ)た。これがきっかけで日本では労働不安が鎮まった。しばらくのあいだドラッカーは、日本企業に雇用保証が広がっている事実を、企業が社会で正当性を持つ日が訪れるという自身の夢が、一部とはいえ実現した証と見なしていたようである。だがやがては、少なくとも市場経済のもとでは、いかなり企業も従業員に雇用を保証することはできないだろう、と予想するに至る。事実日本企業は一九九〇年代にこの苦い教訓を身をもって学んだ。
 ドラッカーはきわめて長い年月にわたって、企業の権力は正当性を持ち得るだろうとの希望を抱き続けていたが、ついにその希望を捨てた。渋々ながらも、「私が五〇年前に抱いた希望は、産業社会では実現しないだろう」と認めたのである。企業の力によって、現代経済の生み出す社会や精神の荒廃を和らげるのは無理だ、というのだ。(p339-340)

 いや、ホント民営化では社会は荒れますよってことだわな。

 (リエンジニアリングのキレイ事について触れたあと)
 このような高尚な考え方は、職務内容が固定されていない状況では、会社を動かす人々(「経営者」あるいはなんという呼び方でもよいのだが)は以前にも増して恣意的な権力を振るい、不公正を生み出す力に溢れる、という事実を見落としている。リエンジニアリングが実施されると、そこで働く人々はよりよい仕事の仕方をするようになるだけでなく、従来よりもはるかに激務に耐えなくてはならず、しかも給与は増えない。グローバル経済のもとで競争が激しさを増しているため、勤務環境が厳しくなったのは、やむをえない側面もあるかもしれない。だが、より高い生産性と利益を引き出すために従業員を酷使し、不当に扱ったのを覆い隠すためにリエンジニアリングが唱えられる場合もあり、この二〇年ほどは職場に失望や怒りが広がってきた。(p352)

 リエンジニアリングをどう解釈するかによるが、リストラだとか顧客満足度を上げるためのカイゼンだとしたら、あぁといった感じだ。合衆国が犯したあやまちを10年遅れで日本は体験してるんだわな…と思わざるを得ない。というか、経営層は知っててやってただろって思いが強くなる。
 まぁとにかく、日本の経営手法ってのがことごとく合衆国の劣化後追いでしかないというのに愕然とする。これは合衆国で実験され、失敗だったことが明らかであることをわかってやってたワケだ。まさに経営層は「知ってて」日本を壊したとしかいいようがない。キャノンの便所なんて合衆国に昔行ってたわけだろ。わざとだぜ。
 他結構面白い部分もあるのだが、機会があったら後日。