そうそう、もう明日はヤッターマンはないのね。

 昨日の夕鶴もそうだが、ヤッターマンを全話見終えて、やっぱ感慨深いものが残っているように思う。どちらも人間の飽くなき欲望を描いており、ふり返ってみるとなるほどと思うことも多い。
 そもそもヤッターマンは主役のガンちゃんアイちゃんよりも、ドロンボー一味のほうが人気があるとどっかで読んで、始めは不思議に思ったものだ。やっぱ餓鬼のころはドロンボーは胡散臭くてかっこ悪く、どう考えても子供向けのヒーローではない。が、よくよく注意してみると、露出時間はヤッターマンよりドロンボーのほうが多いのだ。で、F1層はドロンジョファンも多いと聞く。
 まぁ社会人になってみると、なるほどわけのわからない上司にハイハイといって仕え、任務が成功してもしなくても上司のストレス解消のためだけにおしおき、せっかく苦労して手に入れたドクロストーンも上司がいいトコ取りと、組織勤めの悲哀を感じさせる。情報収集能力に欠陥のあるドクロベーに対して、インチキ商売の才能のあるドロンボー。毎回思っていたのだが、あの商売を数回続けたら一生遊んで暮らせるだろうにな。で、取り締まるべきの警察は終わりごろに一瞬出てきたけど、基本は役立たず。民間慈善団体であるヤッターマンが無能な警察に替わって不正を糺すのだ。
 で、自分がまだ物心のつかない頃に既にこういう社会の現実がデフォルメにせよ確かに存在していたわけで、その後バブルによる日本的雇用慣習の永続性に疑いも持ちえなかった時代*1が現れ、で、今派遣が6割も上前をハねられる現在に至るわけだ。デスマがネットに登場した2000年頃も、上司は基本いいトコ取りで現場に無茶を押し付ける営業をして、自分はゴルフ三昧なんてのもあった。そんな会社ばっかりではないと思うが、いまやグローバル化を目指して生産性向上を部下に押し付けるが、その実具体案は全然示さない圧迫型上司の多いことよ。ヤッターマン30周年だそうだが、会社組織の人間構成のクソさ加減は全然変わっていないように見える。確かにドロンボーの露出が多い分、子供向けだけって事は無かったんだろう。ゲストストーリーで、人間の優しさに深く切れ込んでくる回もあったけど、基本はドロンボーのインチキ商売で、目先の欲に目が眩んでダまされる大衆をこれでもかってぐらいに描き、で、組織の下働きの辛さも毎回見せてくれる。で、ドロンボーは自分たちのやっていることを悪だと自覚してやってる。自分たちもトホホな目に遭っているんだけど、それは理不尽のなせるわざであって、ちょっと注意すれば気が付くはずのインチキ商売にダまされる大衆を見下してる。ま、アクが強い作品だよな。
 で、人間の欲深さをあらためて思い知らせてくれたのが夕べの「夕鶴」だ。鶴の化身「つう」役の山本安英*2の演技を聞いてみると、決して

鶴の恩返しは一般に「何か良いことをすると必ず別の良いことが自分にかえってくるよ」という教訓を交えた話であると考えられがちです。しかし実際は、動物を助ける優しさを持ちながらもたった1つの約束(「決してのぞいてはいけない」という約束)さえ守れない愚かさを合わせ持った人間の、複雑な心理を表しているという説もあります。

 こういった一面性すらほんの一部でしかないことを思い知らされる。ちなみに木下順二はこの戯曲を昭和24年に上梓している。どうもラジオドラマで早々と人口に膾炙したらしいが、終戦間もない日本でコレを聞いた日本人は何を考えたのかに思いをめぐらせると、これまた感慨深い。
 つう自身は、自分を助けてくれたよひょうを慕って彼とのささやかな生活だけを願っているわけなんだが、よひょうは千羽織りに目が眩んだ他人に唆される。よひょうはつうに親しみを覚えながらも、それでも千羽織りを織れと懇願し、嫌と突っぱねるつうに「織らないならオレがこの家を出て行く(離婚するというのと同義だろう)」とツンデレるわけだ。で、つうはよひょうを唆す二人の姿声は見えない聞こえないという設定になっている。
 で、まぁご存知の通り見るなと約束していたのに、よひょうは千羽織りを織るつうの姿を見てしまうわけだが、面白いのはあれだけよひょうを慕っていたつうが、頑なに去ると言って聞かないのだ。これはいくらつうが流れ者で、よひょうの人柄に惚れたといっても普通日本の農村では考えにくいことだ。娯楽の無い農村で喧嘩が絶えない夫婦でも、大抵は仲直りをしてなんのかんのやっていく。今だと何でも擬人化して萌えてしまう日本になってしまったから、獣姦がかなりタブーだった時代を想像するのは難しいかもしれないが、確かに女房が鶴だとバれたら、それで無くともバカで通っているよひょうのこと、そりゃ別れるって流れは極々自然ではあるのだが、そもそもよひょうに女房なんてという設定である。
 こればっかりはラジオドラマを実際に聴いてもらわないとわかってもらえないのであるが、山本安英の演技だと、いかないでくれと懇願するよひょうに対して実に冷淡に振舞っていたのがとても腑に落ちたのだ。これだけ尽くしたのにアホな真似しやがってと、まさに「バカを見限る」という表現がピッタリの演技。決して「許されない一線を越えたから、仕方なく別れるけれども、後ろ髪をひかれる思いで渋々」って感じはないように思った。もちろんよくに目が眩んで見苦しくダまされるよひょうの姿を描いているから、ホント「あ〜あ、やっちゃった」とカタルシスを聴取者に感じさせる構成になっているんだけど、決して惹かれあう二人が運命に引き裂かれるってイメージは無い。
 いや、終戦直後の雰囲気を知りようも無いのだが、昭和24年といったら復興が本格的になってきたぐらいの頃だろう。まだまだ貧しい、いやそもそも昭和初期なんて極貧の生活があたりまえで、さらに戦争で政府に身包みかっぱがれてなんともしようが無いって時代*3だったと思うんだけど、そんななか、「苦しい中もいろいろ欲を我慢して、身内で思い遣りながらなんとかやっていこう」って生温いメッセージなどでは決して ない。
 アレだけ注意してそれで騙されたんだから、もうおまえと一緒にやってはいけない。つるんでたらこっちまで(というかつうだけでよひょうはなんの損失も無いわけだが)身包み剥がれてしまう、寄るなって感じだ。キレイ事に反省だとか、ペーソスだとか、毒だとかを含ませるとかそんなんではなくて、もう毒いっぱいなのを精一杯薄めてこうなりましたって感じが、山本安英の演技から感じられてならないのだ。そう、藤原直哉が好んで使うところの怒りの感情。人様にお見せする演劇だから、不愉快にしないよう抑えてあるけど、本当ならわめき散らしたいほど怒ってるよって感じ。あの戦後の貧しい時代に。
 まぁ昔がそんなによかったわけでもないんだけど、なんで日本人ってのはこうも生温くなっちまったんだろうな。そりゃ豊かになったからだよという一言で片付く問題ではあるんだが、ただ、組織を構成して一緒にやっていくって観点からいうと、もうポイントオブノーリターンをとっくに越えているってぐらい能力が低下してしまったような気がする。というか、日本人って昔からどうしようもなくバカだったんじゃねぇの?。

*1:この時代の派遣は手取りで正社員の3倍も4倍もの高給だったらしい。

*2:大河少女漫画『ガラスの仮面』の登場人物・月影千草は、山本安英をモデルにしている。

*3:本当にモノも娯楽も何にも無い時代だったから、やる事は一つしか無く、それが現在団塊として知られる迷惑世代になっている。要するに避妊ということにすら注意を払わないでヤルだけヤルって時代だったんだろう。