タイムボカンシリーズ ヤッターマン 第78話 ランプ売りの少女だコロン

 ボヤッキー・トンズラーは寒さで凍えているのに、ドロンジョは平気なのか。
 キミンダ国って何のもじりかと思ったら、君→俺→オラで、オランダらしい。アンデルセンって確かデンマークじゃなかったっけ?で連想するのはダメらしい。しかし、遭難とか灯台とか童話のほうには無かったような気がしたが…と思ってググって見たら、やっぱり無い模様。おじいさんのランプでは、ランプは旧世代の遺物扱いだったが、もしかしてマッチもそうかと思ったら、

「流れ星は誰かの命が消えようとしている象徴なのだ」

 らしい。しかも結末からしてマッチの火と少女の死を重ね合わせているという。童話ではさらに死を、神様の元に行ったからすばらしいと美化していたわけだが、なんつーか、宗教というのは罪深いねぇと思うわな。ただ、今の感覚で考えるからいけないのであって、当時は少女がかわいそうだからといっても誰も助けるだけの余力が無く、現実をありのまゝ描写したところで誰もすくわれない。せめて誰にも迷惑をかけずに死んだことを評価して、天国に行ったのだとおためごかしを行ったほうが彼女を聖人化することができるわけで、話を聞くほうも気持ちがどんよりしなくて済む。なにも惨めな境遇におとしめることもないわけだ。当時の人たちだって、マッチ売りの少女の境遇にいつ突き落とされるかもわからないわけだからして。
 でもまぁ現代では、それは現実から目を逸らした単なるセンチメンタリズムで、何の問題の解決にもならない。むしろ貧乏人はそういう境遇を当たり前に受け止めて精一杯過酷な環境で働いて特権階級の懐をうならせてくださいという流れになってしまうわけで、注意が必要だろう。
 で、老婆がジェニーに最後感謝するのもどうかな?と思ったのだが、これは実は水戸黄門と同じ構図なのかな。放映当時はまだ年金制度が積み立て制度の性質が強いときで、賦課方式はまだまだ後の時代になる。で、嫁が旦那の親の介護をするのがあたりまえという風潮がまだ強かった。だからこそ水戸黄門で親孝行な若者を称え、嫁いびりをする老人をクソミソに描いて少しでも各家庭内での軋轢をなくそうという教育的意図があの番組にはあったわけだ。普通に考えて、これもその流れだろうと思う。さすがに孫のよろこぶ番組をジジババが後ろで一緒に見ていたとも思えないのだが、弱いものいじめをして喜ぶことを肯定的に描いてはいないわけで、まぁ子供向けの教育だわな。