しゅごキャラ! 第42話「ほしな歌唄!最後の戦い!」

 まぁ、今のうちでないと、イルと亜夢のキャラなりなんてできないだろうからな。
 いやいや引っ張るとは思っておりませんでした。しかし、盛り上がりはキておりましたな。他人の足を引っ張ってまでものし上がる歌唄の努力とやらを全肯定するのか?と思ったら、こりゃ理屈のジェットコースター展開。ダイヤと亜夢のキャラなりは、もうちょっと亜夢の本質に迫ってからと思っていただけに、肩透かし気味な思いですわ。ただ、弱さを含めた自分を認めるというテーマは理屈として合ってはいるので、ダメというほどでもないんですけどね。
 うーん、どうも自分的にはビミョー感が漂う。亜夢がコンプレックスを抱えていて、それをクライマックスで解消→イケイケ展開という古い形をどうしても期待していたため、どうにも違和感が。黙って続きを視聴してれば、シリーズ構成の意図がわかってくるんだけど、どうにも20年前の子供向けアニメのパターンが頭を離れない。もっと構成的に亜夢をイジめ抜いて、最終回もしくはその前回で解消ってのがお約束だと思っていたのだが、今の子供はそういうので喜んだりしないのか?。
 確かに迷いをふっきった亜夢がリーダーシップを発揮して、他のガーディアンとともに世直しという流れというのは、現代的に言っても最適ではあるんだよな。今や価値観の相対化や個人主義の普遍化によって、水戸黄門といえどもあまり個人の事情に踏み込むのはNGだったりするわけで、そう考えてみれば、亜夢の×たま退治があまり個人の問題に踏み込まずになされていたというのも納得である。
 かといって個人ではあまりにか弱く、誰かの助けは必要ではあるというバランス。歌唄のアメリカデビューの際の×たま関連の展開なんて、どう考えても今の自民党マスゴミの戦略そのもので、それから個人が逃れるというのは甚だ困難だ。分断された個人の集合体に無意識下でなされることに対してどうやって個人が抵抗していかなければならないのか?を考えると、やはり連帯なり共生なりが必要とされるんだろう。その“ゆるやかな紐帯”をどうやって作っていくかは、亜夢やガーディアンが、それ以外の生徒をどうやって繋いでいくか?という形では無く、亜夢がガーディアン達をどのように連帯させていったか?に示されている。よく出来ているとは思うんだが、わかりにくいよな。っつーか、子供に分かるのか?…、とは思うが、原作かアニメスタッフかはわかんないけど、よく考えているよなぁとは思う。
 亜夢が以降本当にリーダーシップをこれから発揮するかどうかは別にして、確かに歌唄やダイヤのいう通り弱々しい部分はあるものゝ、誰もが歌唄にはなれないわけで、その点一介のしがねぇ民衆であるところの亜夢の静かな奮闘のほうがよっぽど共感は持てる。強者が配慮をかなぐり捨てて弱者から搾取をして輝くってのはどうなんだ?というところへの突き詰めは無いが、怠惰を避け、かつ共感を基本とした社会は亜夢の態度にこそあるとは思うんだよね。巧妙に“自分らしさ、自分の夢”と“他者”とのバランスをどうとるか?についても避けられているんだけど、そこらへんの結論も楽しみにするとして、次回の、亜夢やガーディアンと助けられた歌唄の共同作業を拝見するとしますか。