エル・カザド 第25話「聖なる女」

 すべてが儀式?。
 ラスボスを倒す展開としては別に不思議も無いんだけど、どうなんだろう?。ナディが一度死ぬところは良くわかんなかったんだけど、それはともかく、エリスもナディもいっぺん死んで、もう一度よみがえる必然性はなにか?と考えてみると、よくわかんない。別に物語としては死ぬ場面無しにローゼンバーグを殺すという選択もあるわけで、それを敢えてしなかった理由が良くわかんないな。
 まぁ一番可能性が高いのは、エリスが「利用されるぐらいなら死んでしまったほうがマシ」と言って自ら力を捨てるという選択をし、それを見た三石琴乃議長が、エリスに力を使う資格があると認めて復活させるわけで、ローゼンバーグのように人を傷つけることが前提の我欲を否定したってとこですかね。三石議長は見苦しく自分たちの子孫を存続させることを選択せずに滅びの道をなんて言っていて、人間の手で作り出されたエリス、つまり新しい世代に道を譲っているのが印象的ではある。
 うーん、今までナディとのかかわりによるエリスの人間性獲得の部分に目をとられて、そんなに政治色なんて想像しなかったのだが、よくよく考えてみれば、世の中の不条理に困っている人を描いたり、混乱している世の中で騙したりするような人間に立ち向かったり、弱い人間を助けたりしていたわけだ。エリスとナディは個人的にはべったりではあるんだが、だからといって自分たちだけの世界に閉じこもっているわけでもなく、むしろ協調を重んじて進んで人助けもしている。
 で、自民党清和会のつくった「権力をもった層がやりたい放題」の世界の世直しとも言えるようなつくりになっている。世の中がメチャクチャになっていて、それは力の使い方がおかしいからなのに我欲のためにいつまでも権力にしがみついて、その力で依然人々を不幸にしているわけで、エリスの場合には自分から人を傷つけるような使い方はしないし、自分の意志と反して力を使わされそうになったらいつでも放棄するという潔さは確かに理想である。
 真下監督だからもうちょっと観念的なテーマが隠されているような気がするんだが、案外こういうわかりやすい解釈が主だったりするんだろうか?。
 リリオは蘇生の場面のとき、ただのよりしろとなっていただけだよね?。

追記 ヰニャイマルカって、どうやら実在するっぽい。というかビートレイン作品のファンサイトウィキがあるのにびっくり。チチカカ湖にあるとかないとか。

Retrieved on 24 January 2007. Quote: "The smaller southern section is called Wiñay Marka ("Eternal City"), and is comparatively shallow. This led to the legend of a city lying beneath the lake, a legend that was strengthened after the remains of a settlement and ancient temple were discovered on the lakebed in 2000."