奏光のストレイン 第5話「尽きせぬ恩讐」

高川学園高等学校展示

 うーん、ロッティ当番回と言っていいのかな?。
 前回までで主要キャラの紹介が終わっていたようで、いきなりエンジン全開ですよ。ドラマとしてよ〜できていた。ロッティがただの威張り散らす女王様ではなくて、彼女の特性ゆえにチームがまとまっていることも明快に説明されていた。セーラが理不尽とも思えるいじめに耐えている理由もきちんと設定・表現されていた。もちろんセーラが新しい仲間となぜ素直に打ち解けようとしないのかもなんとなくわかる。
 まぁカアマイクルマリエットがなぜ自分たちを守ってくれる一番の鍵であるセーラに辛くあたるのか?。それこそもう一度襲撃されたら、以前より戦力の落ちた現在ではセーラに頼ることなく無事でいられることなんてまずありえないことは気付いているはず。セーラ自身負い目を感じているからいいものの、もし該当者が普通の人間であってと考えても、戦闘中見殺しにされることを考えたら絶対にマリエットはああいう行動は取れないはずという疑問は多くの人が感じたはず。
 まぁフランクルの「夜と霧」を読めばピンとくるのだが、実は人間が極限状態(強度のストレス状態)におかれると、仲間を売ってでも助かろうとする情景が描かれており、人間とはそういうものという絶望ともあきらめともつくメッセージが受け取れる。まぁアウシュビッツで同じユダヤ人が互いにいがみ合う情景を読むことができるわけだが。まぁちょっとこの場合は設定状況が違うが、ここであまりマリエットを悪者にしすぎるのは控えたほうがいいと思われる。アウシュビッツで言えば、極限状態にあっても人としての品格を失わず、自分を犠牲にしても他人に尽くす人間がいて、実はそれは盲目的な宗教信者だったりするわけで、なんか現代に生きる自分としては二重の意味で人間というのはつくづく救いようが無いなぁとも思わされる。この様子は収容所側からも観察されており、あまりの極限状態下での業務で精神がおかしくなって囚人に暴行を働いたり、怠惰になったりする親衛隊員を見てある収容所長は「わがドイツの同朋もかの(狂信的な信者である)囚人を見習って欲しいものだ」と述懐する始末。
 ロッティがセーラの警戒心を解くために必死だった様子には正直涙を禁じえなかった。この部分だけを取り出していじめ問題解決の処方箋にしてしまうと、それは物事を見誤ることになるのだが。まぁなんつーか漢と漢の通じ合い(二人とも女だが)にはやられましたよ。